皐月文庫

青春

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最終更新日2020年12月27日
漫画 25

綿谷さんの友だち

大島千春

高校3年生に進級しクラス替えとなった当日、「山岸」さんは教室の片隅で読書をしている見知らぬ同級生に気付く。「はじめまして」の挨拶は滞りなく出来ただろうか。冗談も洒落も通じないちょっと変わった感じの彼女は「綿谷」さんと言った。この物語はそんな女子高生「綿谷」さんを中心に「友だち」の作り方やあり方という、ともすれば深みにハマってしまいそうなアレコレを登場人物それぞれの個性にしっかりと焦点を当てて描いたコンセプトアルバム的青春譚だ。全3巻。

この物語の一番の魅力は、何と言っても初対面で同級生に「変わった娘・・・」と評されたその綿谷さんにあると言っていい。冗談や洒落のつもりで投げ掛けられた言葉を額面通りに受け取ってしまう融通の効かない真面目な娘、「友だちとは一体何だろうか」という極めて曖昧かつ微妙な問題について、もちろん「友だち」という喧々囂々の線引きをそのままドラマ化することは、青春モノとしてはかなり陳腐な展開と言えるだろう。だが曖昧だとか有耶無耶だとか、そんな甘酸っぱい平行線を「変わった娘」の綿谷さんは許さないのだ。空気を読まなければ成立しない感性や関係に一石を投じる綿谷さん。ただただ詰問するようであればナーバスな展開になってしまうだろうが、最初にきちんと説明することでその後の関係性を曖昧にさせないという意思表示になり、これまで「空気」という絆の中で生きてきたクラスメイトたちに(あるいは読者自身に)何か新しい関係性が生まれるのではという期待感を抱かせるのだ。この細かい「批評」と「変革」の積み重ねが物語を進める推進力の一つとなっている。

「友だち」という言葉の曖昧さが一方で青春時代の美的感覚だったあの頃。定義することの難しさ恐ろしさがあったのは多分今も昔も変わらないだろう。最近になって「多様性」という言葉が再発見されたが、ウワベの繋がりではなく、きちんと個性同士のぶつかり合いを描いた作品はそれほど多くないと思う。最初から計画された全3巻だったのか、事情はどうあれもうちょっと楽しみたかったなという思いとこの話数で良かったのだという感覚で読後は結構複雑な心境です。

著者
出版社
小説 28

明日の僕に風が吹く

乾ルカ

医者の家系に生まれついた「有人」は、幼い時に見た機内での叔父の姿に憧れてやはり医学の道を志す。しかし思い描いた医者への道は中学二年の晩夏に起こったクラスメイトの「道下」さんに纏わる事件によって自ら閉ざしてしまうのだった。そうして長い期間引きこもりとなった有人に優しく問い掛ける憧れの叔父。いつしかその叔父の手によって北海道の離島まで連れ出されることになる。これは取り返しのつかない失敗に苛まれた主人公の未来を取り戻す長い長い再生の物語だ。

この前に読了した同作家の「夏光る」は一言で言ってしまえば怪異譚ではあったが、その創造性あるいは空想的な広がりにおいて独特な味わいがあったように思う。実に美しい作品だった。翻って本作は極めてスタンダードでまたオーソドックスな作品だと思う。挫折からの再生という「青春もの」の王道を貫いているし、何より「ここではない何処か」への道筋を東京から北海道の、それも離島という格別な場所に導いていくことからも、作家本人が仕掛けたこのジャンルへの真っ向勝負ではと勘繰ってしまうほどだ。ここで語られている幾つかの伏線もまた結局は本筋を奮い立たせるためのスパイスに終始する。これをどう感じるかは読者次第だと思うが「夏光る」とは明らかに異なる文章・文体に戸惑う方もいるだろう。

いわゆるアナフィラキシー(アレルギー)の命に関わるような症状やその状態、あるいは物語の大勢を占める「離島医療」の問題、距離感はあっても誰かの日常には違いのない事象について、突きつけるような使命感めいたものをヒシヒシと感じてしまう。そうした雑味のないストレートなひたむきさを味わうには本作は打って付けではないだろうか。僕らの日常はそんなふうに切り取られていくものだときっと感じ入るに違いないし、そういう純粋さもまた物語の魅力なのだと再確認出来ると思う。

漫画 24

水は海に向かって流れる

田島列島

高校生になった「熊沢直達(くまざわなおたつ)」くんは、漫画家になっていた叔父の元に居候することとなる。アパートというよりシェアハウスのようなその家には風変わりでクセの強い面々が揃っていたが、一見して一番まともに見えた10歳年上のOL「榊」さんは、実は直達くんと浅からぬ因縁で結ばれていた。この物語は過去から現在そして未来へと繋がる様々な絆をテーマにした「家族」譚だ。全3巻。

過去の不義から繋がる因縁。やろうと思えば何処までも重厚なシリアスものにできたはずだ。ところがこの物語はそんな重そうな展開に陥る一歩手前で、トボけたコマを大胆に差し込み、筋書きの力加減をマイルドに調節してくるのだ。この「極限」に振り切らない幕切れは簡単に言ってしまえば「なんちゃって」で方を付けるあの感覚で説明がつくのかもしれない。だが波風が立ちそうで立たない揺らぎの部分を筋書きではなくシリアスとユーモラスの振幅で語るこの構造に、家族や家族めいたものの理想の絆として投影したかったのではないか。かつてあった「崩し」の時代性を基にした配慮ではなく、最終巻巻末の後書きから察するにおそらく作家自身の資質が色濃く反映された故の構造なのだと思う。

世の奥様方に向けられた午後のテレビドラマにはないそんな振幅を、読み手はどう感じるか、結果としてひとつの答えに行き着かないだろうという曖昧さに結実する。また年少の「直達」くんとその同級生が気を使い「配慮」する側であり、反対に年長の「教授」や「親」たちが自由自在であること、その中間にある「榊」さんが繋ぎ(あるいはワイルドカード的な)であるという図式がその構造に拍車を掛けている。

緊張のキワで逆に舵を取る、世代の役割を逆転させる等、この「逆を衝く」という感覚こそ本作の魅力とも言えるだろう。多様性という言葉で片付けるのではなく、作家の思う筋書きにまんまと乗せられ、振り切らない揺らぎの中でシリアスを堪能できる稀有な作品なのだ。

著者
出版社
漫画 23

あさひなぐ

こざき亜衣

スポーツに縁のなかったメガネの主人公「東島旭(とうじまあさひ)」は二ツ坂高校に入学すると、耳障りの良い謳い文句とキレのある先輩に惹かれて「薙刀部」に入部する。決してメジャーな競技とは言い難い「薙刀」にかける女子高校生たちの青春模様を描いたスポ根系群像劇。全34巻。

凡人が天才になる様を描いたわけでもなく、背負った業から逃れる悲哀を切り取ったわけでもない、ただ純粋に「何も持っていない」主人公のこの成長譚は、他のスポーツ系漫画とは明らかに趣が違う。何もないことが逆に良かった、というわけでもなく、群れに埋もれてしまった一人の少女にスポットを当てて、彼女と彼女を取り巻く個性のせめぎ合いを描きながら、その中で得た思いや気付きを紡いでいく様に重点が置かれている。端的に言ってしまえば、試合の勝ち負けよりも彼女や彼女たちの生き様、もしくは思想(生き方・自分とは何かといった類の)の変遷を楽しむ物語、なのだと思う。

いあゆるバトル系の漫画にありがちな「強者のインフレ」に陥らず、数多い登場人物のそれぞれにも目を配り、一方で「なぜ戦うのか」という主題から目を逸らさず根源的な人と人とのやりとりで気付かされる自分という存在。最終巻の作者後書きで述べられている通り、作家本人の当時の環境や思いがあったにせよ、ある種の「悟り」のようなフッと肩の力が抜ける瞬間をこうもナチュラルに筋立てるにはかなりの試行錯誤があったに違いない。

足掛け約10年、じっくりと醸成されていった物語の終幕は厳かで実に美しい。この先の「未来」でも彼女たちはきっとやり抜いてくれるはずだという確信、読者やもしかしたら作家の手から彼女たちが離れた瞬間を目撃してしまった寂しさ・頼もしさ、そんな生々しい感傷に浸って長く心に残る傑作だと断じたい。

小説 25

青が破れる

町屋良平

殻を破ることが出来ないボクサーのひと「秋吉」と予想もしない方向に感情を爆発させる親友の「ハルオ」は、退っ引きならない病で入院しているハルオの彼女「とう子」さんのお見舞いに向かっている。死がすぐ目の前にあっても「老後の心配をしなくて済む」と朗らかに振る舞うとう子さんの姿。ジムの仲間「梅生」や不倫中の彼女「夏澄」とその子「陽」など、秋吉を取り巻く面々は、臆面もなく無邪気にもどこか老成している。この作品「青が破れる」の言葉の通り、端的に言ってしまえば「喪失」をテーマにしたいわゆる青春譚のひとつだ。

物語をレイアウトする、もしくは言葉をデザインする、といった類の評価の仕方があり、その題材に相応しいものは何かと言えば、本作はまさにうってつけのようにも思える。主人公「秋吉」の言葉は内外ともにプリミティブで、キャラクターの目線に立った文体が妙に生々しく見えてしまう。「知って」か「しって」なのか、そうした細かい漢字や仮名の使い分けに留まらず、キャラクターとしての逡巡が弾むようなリズムとテンポで描かれている点、言葉の少ない主人公の等身大の感覚に倣って掴み取ることが出来るリアルさ。この一種の肌感覚が本作の醍醐味のひとつだと思うし、そういった感情の変化変遷だけではなく、ボクシングや病室、車内の情景、川や街の風景にすら、鮮烈で荒々しい「味」や「音」「匂い」を漂わせてくるのは、何かを捨てても選び抜いた言葉がその世界にとって真に適切であり、「理に適っている」からではないか、そんなふうに感じて仕方がないのだ。

青春とは何か、という定義はもはや喧喧囂囂、言うことすら憚れる部分はあると思う。太古の昔からある通り「喪失」あるいは「解放」を謳い「ここではない何処か」へ歩みゆく様が青春であるとすれば、本作は一片の躊躇いもなく確信的で、かつアイデアに満ちたソリッドな青春文学だと断言してよいと思う。

小説 22

神去なあなあ日常

三浦しをん

フリーターでもやって食っていこうと心に決めた「平野勇気」は担任「熊やん」の策略にハマり、高校卒業と同時に三重の山奥で林業に従事することとなった。生まれ育った「横浜」とは違う、のんびりとした山奥の小さな集落「神去村」。果たして彼はいっぱしの「男」になれるのか、その奮闘ぶりを描いた青春模様。なおこの物語の後日譚「神去なあなあ夜話」含めて「神去シリーズ」全2巻。

「なあなあ」というのは方言のひとつで冒頭その説明から入るのだが、もうこの時点でこの作品の雰囲気が何となく読み取れてしまう。肩の力が抜けるような「ふわっ」とした感覚だ。これが実に気持ちがいい。そんな方言のマジックに彩られて、林業という過酷な仕事の裏と表を安心して受け取ることができてしまうのだ。

ところでこの「ふわっ」と感はどこからこの世界を見ているのかという「視点」にも影響を与えている気がする。例えば物語は主人公の「勇気」の目線で描かれているはずなのに、なぜかそれよりも強く上位の視点・存在を感じてしまいドキッとしてしまう。テーマとして大いなる自然を相手にしているからなのか、それともこの作家の為せる技なのか、どこか「勇気」の親にでもなった気分で、寄ったり引いたりを繰り返しながら、吸い付くように一気に読んでしまったのだった。

自然の厳しさや恐ろしさを知った上で、どのように山と向き合い、付き合ってきたのか、村の風習やそれにまつわる不思議な逸話など、物語の奥行きは想像以上に深く広がっている。都会らしさから切り離されて、ゆっくりとその山の一部となっていく「勇気」くんに優しい拍手を送りつつ、今ある自分が何をすべきか、ちょっとだけヒントをもらったようなそんな印象である。

漫画 15

ひとりぼっちの地球侵略

小川麻衣子

高校生になったばかりの「広瀬岬一(こういち)」は変わり者の先輩「大島翠」から「二人で一緒にこの星を征服しましょう」と告げられる。通っている学校の、住んでいる街の事件はいつしか宇宙全体を巻き込む壮大なストーリーへと発展していく。全15巻。

もはや「王道」というものが何なのかよく分からなくなってしまった。努力・勇気・根性(並びはこれで合ってるのかな)だとかもうね、という。それでもこの作品は世の少年が心弾ませるような英雄譚ではない気がする。女の子との恋愛コメディ的な要素もほぼないし、妙に凝った設定を解説することもない。ではこの作品の魅力とは何なのかと考えれば、可愛らしいのに何処か哀愁さえ感じさせる絵柄と間の取り方が絶妙な隙のないストーリー運びにあるのではないか。つまり妙に洗練されているのだ。結果「少年はそして青年となる」というフレーズがしっくりくる大人な終幕を迎える。これは僕の知っている少年漫画とは言い難い。ベクトルの違う、良くデザインされたオシャレな漫画なのである。

少年誌系の漫画を読むことはもうほとんどない。それでもどうやら後学のため、読み続けることによって見えてくる何か(少年の心とでもいうような)に期待しているフシがあるらしい。

小説 15

黄色い目の魚

佐藤多佳子

絵を「見る」ことが好きな女子高生の「みのり」と絵を「描く」ことが好きな同級生「木島」の仄明るい青春模様。

馴染めないクラスメイト、授業中の彼のあまりにも上手い落書き、放課後の美術室、それぞれの家庭、そして彼女が世界で一番好きな場所という叔父「通ちゃん」のアトリエ。それぞれのキャラクターにそっと寄り添いながら、その頃の少年少女が持つ特有の複雑さを丁寧に描いている。そう、何というかもうどうにも形容しがたい優しさだとか暖かさに満ちているのだ。これは僕個人が思うこの作家特有の描き方でもあるし、次も読みたいと思わせる魅力のひとつでもある。きっと視点の切り替えにある文章の妙というのも大いに影響しているだろうし、さらに言えば彼らの側に自然に立てるようなそういう書き方というのは、特に青春時代の複雑さを表現する上でこれ以上ない技法のひとつとさえ思える。

大きな事件があるわけでもないし、世の中に絶望するような激しい感情もない、誰かの視線は気になるが一生懸命はただただ格好悪い。目の前の事象を重ねていくうちにそれぞれがちょっぴり成長するようなそういう青春。でも多分それが正解。

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小説 14

ネバーランド

恩田陸

冬休みを迎えた男子校の学生寮で、帰省せず居残りを決めた4人の少年たちのそれぞれを描く青春小説。

彼らが抱える問題と巻き起こる事件、明かされる秘密。後書きで作家自身が萩尾望都の「トーマの心臓」をやりたかったと述懐している通り、あの時分の少年が持つ特有の表裏のようなもの、そんなものを逆に溌剌としたキャラクターたちに託して実に爽やかな青春学園ものに仕上がっていると感じた。

寮という閉鎖的な空間で、それでも4人しかいないというシチュエーションがもう既にミステリーの舞台としては申し分ないし、彼らがなぜ帰省せず、残らなければならなかったのか、彼らにどんな事情があったのか、それを知りたいと思わせる登場人物たちの個性があるのだ。しかも季節は冬。春でも夏でもないこの季節特有の雰囲気も相俟って舞台がより際立つような、そんな仕掛けに満ちている。前述の後書きにもある通り、作家自身この作品に対する思いは様々あるようで確かに仰る通り後の作品のベースになったようなそんな感じだ。

ちなみに萩尾望都の「トーマの心臓」は僕が学生の頃に読んで当時頭が破裂するほどの衝撃を受けた作品のひとつだということを補足しておきます。

漫画 12

茄子

黒田硫黄

スタジオジブリの映画「茄子・アンダルシアの夏(2003)」や続編「茄子・スーツケースの渡り鳥(2007)」をご覧になった方は多いと思うが、と同時に「茄子?」なんで「茄子?」と思った方もかなりの数いると思う。そしてそれらの奇妙な自転車ムービーに原作の漫画があったことを知っている方は意外にもあんまりいないんじゃないかなぁと感じている。全3巻。

黒田硫黄と言えば、絵筆を用いたまるで版画のような独特な絵柄でお馴染みだが、茄子という黒くて丸っこいあの造形物を描くにはもうもってこいなんじゃなかろうか、いやそんなことはどうでもいい、とにかくなぜ茄子なのか、茄子に纏わる、およそ茄子とは何の関係のない筋書きにさえ、強引に茄子をあてがう、茄子がなければ死んでしまう、そうして出来上がったこのお話は立派に全編「茄子による茄子のための茄子の物語」になっている。不思議なことに。

かなり前の話だがあの大友克洋のインタビューを読んだ時に漫画家のうちで自転車が流行していて云々という件があったので、もしかしたら短編アンダルシアの夏はその話と因果関係があるのかもしれない。だけどやっぱり茄子なんだよな。
ちなみにそのジブリ映画も本作の構成をあますところなく踏襲しているのはリスペクトゆえだろうと思う。それに僕が買った第1巻の帯では宮崎駿カントクが「このおもしろさが判る奴は本物だ。」と仰っているので、多分僕は本物。

漫画 10

花もて語れ

片山ユキヲ

「言葉とは声から生まれたもの」こんな導入で始まる、伝える文化「朗読」をテーマにした引っ込み思案で声の小さい主人公「ハナ」ちゃんの成長を描いた物語。全13巻。

日本朗読文化協会の協力のもと「朗読」の技法やその意義もきちんと解説しつつ、どうすれば伝わるのか・どのように表現すべきかといった、作り手界隈には頭の痛い普遍的な課題についてもハッとするような閃きを与えてくれるバイブルのような本。正直に言うと、僕個人の考えでは一種の警句集のような立ち位置にある。

宮沢賢治や金子みすゞ、芥川龍之介などの文学作品を取り扱い、作家たちが紡いだ言葉の意図をどう読み解いていくのかも面白い。その上で登場人物たちの直面する問題に、あるいは自分自身の抱える問題に「ハナ」ちゃんが朗読でどう立ち向かっていくのか、「想いを伝える」というシンプルな見せ方にグッと深みの増した答えが乗っかっていく筋書きはこの物語ならではと言えるだろう。

小説 6

明るい夜に出かけて

佐藤多佳子

ある事件がきっかけで心を患い、大学を休学してコンビニでアルバイトすることになった主人公の再生と成長の物語。

バイト仲間の先輩と客としてやってくる小動物のような女の子との交流を経て、自身の過去と向き合えるようになっていく。ネット、生配信、そしてラジオ。この物語では新旧のメディアが入り乱れつつも、「顔の見えない声」や「本名ではないハンドルネーム」が暗がりの中の街の明かりのようなポツポツとした力強さを持って物語を前へ前へと進めていく。

ネットもラジオも目に見える繋がりは皆無なのに、どういうわけか誰よりも深く繋がれると信じている一方、現実の繋がりは目に見えない壁に囲まれていてどうにも出来ない。絶望の上にやってくる優しさだとか暖かさだとか、軽々しく言えることではないのだが、この対比と一体化がこの物語の軸になっていると思う。

なお、作中に登場するラジオ番組は実在する本物の番組で、パーソナリティも本人たちがそのまま登場(?)する。