皐月文庫

集英社

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最終更新日2022年7月3日
小説 32

雪と心臓

生馬直樹

クリスマスの夜、主婦の不注意から燃え上がった火の手は瞬く間に炎上し一軒家を包み込んだ。間一髪で戸外へ逃げ出した彼女だったが、ふと見やると燃え上がる二階の窓から幼い少女が「助けて」と叫んでいる。取り乱す主婦。そこへ不意にやってきた「その男」が炎を物ともせず家に飛び込み、やがて少女を助け出すことに成功する。しかしその男は助け出した少女を主婦に渡すことなくその場から立ち去ってしまう。その男はなぜ少女を助けたのか、少女を抱えたままどこに向かおうとするのか、そして彼とは一体何者なのか。スパイアクションを彷彿とさせるような強烈な冒頭を経て紡がれるその男と双子の姉の物語。

一気に読むべきだと帯に書かれてある通り、小説でありながら時間や空間の描写・捉え方が映画やドラマなどの映像作品に近しいような感覚がある。冒頭の大きな事件から不意に男の過去へと飛び、そこで男には双子の姉がいたことが明らかになるが、物語としてはその姉が筋となる。彼女との思い出とともに男の在りようがどう変化していくかを紐解いていく、そういうストーリーになっている。時間的な揺らぎはあるにせよ、そういう意味では「起承転結」に則った物語らしいドラマと言えるかもしれない。

ただ一方その結末については賛否ありそうだなとも感じた。物悲しさはあっても次に繋がるような希望を見せた方が良かったのか、あるいは潔く幻想的な終幕を迎えてもこの筋書きでは正しかったように思う。長い長い過去の物語から一瞬の出来事でしかない「今」の描写にあって、ようやく繋がったその瞬間にグッとくる「意味」があること、この仕掛けの奥深さを表現するにあたって何が良かったのか、これは読み手各々で議論できる余地が多いにある。

とにかく我々が思い描く理想の生き様とは何かを思い描くには最良の作品だと思う。それは「なぜ生きているのか」というようなややもすれば衒学的な言い回しになりそうなデリケートな問い掛けではなく、もっともっと身近でありふれたものに違いない。そういう誠実さをこの物語では味わうことが出来ると思う。

小説 31

ワーカーズ・ダイジェスト

津村記久子

舞台は大阪、デザイン事務所に勤めるデザイナーの「奈加子」は副業でライターの仕事もこなす32歳。一方ナカセガワ工務店に勤める同じ32歳の「重信」は東京から故郷の大阪に転勤となり実家に戻ってきた。何の接点もない二人がお互いに打ち合わせの代理という立場で初めて顔を合わしたのは大阪駅にあるホテルのロビーだった。表題の「ワーカーズ・ダイジェスト」に短編「オノウエさんの不在」も含めて会社員の薄い悲哀を綴ったまさにダイジェストな日常譚。

この作家の人物描写には本当にいつも驚かされる。絶妙な距離感があって、例えばそれぞれのキャラクターにぐっと寄って深層を抉り出そうとするわけでもなく、読み手がある意味神様のような視点に立ってただただ箱庭を眺めていくわけでもない、まさに彼ら彼女らの頭の上にいるような、そう今風に言えばGoPro映像のような感覚、本作においてもその感覚はもちろん健在で、なおかつサラリーマンたちの頭上数センチに立って垣間見るわけだから、何だか無性に叫びたくなるような生々しさにグッとくる。ところが不思議なことに感情移入云々というような物語で有りがちな楽しみ方がここではし辛い。登場人物たちの生音が聞こえてくるような場所にいるのに、どういうわけかフッと二三歩引いて読んでいる自分に気付く、これが驚きの理由になっている。

よくよく読んでみればそれぞれのキャラクターはかなり特異な方だ。何かにコダワリがあり、悩みもあり、ちょっとづつ失敗もする、好きも嫌いもやたらに溢れていて妙に鼻を突く人間臭さがある。ところがそんな人物があっても日常のアレコレが覆るような大きな事件が起きるわけでもないので、おそらくこの辺のバランス感覚、人物と背景のマッチ具合が多分キモなんじゃないかなと読後に思ったのだけれども、果たしてどうだろうか。

とにかく何度も言うようにこの作家は観察の人だと思う。それは本当にどの作品を読んでも強く感じる。あるいは「観測」の作家であって、作家である彼女が見たものが「事実」として小説になるような、そういう自然な創作の流れを体験出来ると思う。

小説 29

ジャージの二人

長嶋有

二度の離婚をして更に三度めの結婚もうまくいっていないカメラマンの「父親」と妻に不倫をされてもなおウジウジと決めかねている「息子」が祖母の残した軽井沢の別荘で過ごす避暑のための数週間。大量に残された学生用ジャージに着替えて、何をするわけでもなく、親子揃ってダラダラと夏を越していく。まるで映画のワンシーンワンカットのような切れ目のない文章、何処か地に足の着いていないフワフワとした登場人物たち。ストーリーとテンポが噛み合わない不思議な非日常系日常譚。なお文庫版には表題の「ジャージの二人」に後日譚としての続編「ジャージの三人」も収録されている。

久々に小説を読んでいて「ウッ」となった。面白い、何も起こらないのに面白い。で、面白いんだけど、その実ものすごく読み難い。このセリフは一体誰の言葉なんだとか、そういうふうに視点視座が当然のように「わかっていますよね」と勢いで紡がれていく。読むためにはまず作者の頭の中に入り込んで情景を共有し、次いで登場人物たちに入り込んでその空間が一体何なのか把握する必要がある。しかしこの作業が無意識にできるようになると、急に視界が彼らのものにジャックされて妙に生々しい物語となる。これがこの作品の最大の魅力のひとつだと思う。

勿論こんな仕掛け(あるいは作風めいた)というのは別段新しいものではないだろうし、珍しいものでもないんだろうけど、どうにも他に説明のしようがないのだ。先ほど言った映画のワンシーンワンカットというのは若干強引な例えではあるのだけど、個人的には正しいと感じているのでよく言われる「臨場感」とは別に敢えてもう一度言及してみる。つまりこうだ、書かねばならない情報は連続している、それは原因と結果の反復であり、それこそ時間を軸にしたリアルさである、都度あらわれる様々な事象や思考の変遷を脚色なく鎖のように繋いでいくことで物語に嘘臭さがなくなり、その結果作品世界と読み手の間の距離感が限りなくゼロに近付いていく、とこんな具合だ。

「父子から魔女じゃないかと疑われている友人」「携帯電話のアンテナが3本立つ場所」「ほとんど気を使わない犬臭い犬」というような気になる仕掛けがありつつも、表題の通り蓋を開けてみれば結局は「ジャージの二人」ではあるのだが、この一筋縄ではいかない(あるいはいかないように装っている)この究極の距離感こそ、味わってほしい本作最大の魅力と言える。そして図らずも一気に全部読んでしまう、そういう類の小説なのだ。

小説 26

みかづき

森絵都

実家の問屋業が失敗し、若くして働くことになった「大島吾郎」は小学校の用務員職に就く。しばらくして勉強の出来ない子供たちの面倒を見るようになると、信念のような独自の考え方で子供たちを導き、いつしかそれは「大島教室」と呼ばれるほどの評判となった。この物語はその吾郎と彼に私塾運営を託した後の妻「千明」、連れ子を含む3人の娘たちに彼女らの孫の3世代にわたって学校と塾の官民含めた日本の戦後教育を紐解く壮大な大河ドラマに仕上がっている。

3代続く大島家は、それぞれの時代性、時代の風潮をその個性にしっかり反映させている。戦前に教育を受けた人間の教育に対する疑念あるいは理想に始まり、詰め込み教育と揶揄された世代、受験戦争、そしてゆとり世代と明治から続く教育の諸問題は昭和平成に至ってもなお、結局は時の潮流と切り離すことは出来ない。政治や経済に振り回されながら教育とはどうあるべきか、答えることが難しい数々の問いに大島家の面々は立ち向かっていく。

一方で主人公と呼べる存在は作中には表立って描かれない子供たち自身とも言える。そういう意味で言えば千葉県八千代台という新興住宅地を舞台にした点も同様に作中で描かれる世代交代は非常に興味深く読めた。単に「子供が大人になる」だけではなく「子が親になる」ことの意味も含めて、本作は共通する「教育の何たるか」を考える良いきっかけになるだろうと思う。

僕ら団塊ジュニア世代にとって学問とはライバルを蹴落とすための「手段」であったという感覚を否定することが出来ない。学力とは知識とは等と論じる前にその結果が試験の点数に結びついていることを嫌が応にも叩き込まれた口だ。受験戦争とはよく言ったもので、今この年になっても「教育」という言葉にあまり良い思い出がないのも事実であるし、何よりその結果の就職氷河期なのだから多感な十代の頃を無駄にしてしまったのではないかという無念ささえ拭えないでいる。そういう観点からでも本書の描く世界というのは実に興味深く、また実態の伴った生々しい感触を得られる貴重な資料だと言える。そしてその世代にある個人としてもこの物語が深く心に残ったことを付しておきたい。

小説 14

ネバーランド

恩田陸

冬休みを迎えた男子校の学生寮で、帰省せず居残りを決めた4人の少年たちのそれぞれを描く青春小説。

彼らが抱える問題と巻き起こる事件、明かされる秘密。後書きで作家自身が萩尾望都の「トーマの心臓」をやりたかったと述懐している通り、あの時分の少年が持つ特有の表裏のようなもの、そんなものを逆に溌剌としたキャラクターたちに託して実に爽やかな青春学園ものに仕上がっていると感じた。

寮という閉鎖的な空間で、それでも4人しかいないというシチュエーションがもう既にミステリーの舞台としては申し分ないし、彼らがなぜ帰省せず、残らなければならなかったのか、彼らにどんな事情があったのか、それを知りたいと思わせる登場人物たちの個性があるのだ。しかも季節は冬。春でも夏でもないこの季節特有の雰囲気も相俟って舞台がより際立つような、そんな仕掛けに満ちている。前述の後書きにもある通り、作家自身この作品に対する思いは様々あるようで確かに仰る通り後の作品のベースになったようなそんな感じだ。

ちなみに萩尾望都の「トーマの心臓」は僕が学生の頃に読んで当時頭が破裂するほどの衝撃を受けた作品のひとつだということを補足しておきます。

小説 12

オートフィクション

金原ひとみ

作家の「リン」はある時担当編集者の「品川」から「自伝的創作」の執筆依頼を受ける。現在から過去へ、唐突に走り始める世界。だがそれは真実なのか、それとも虚構なのか、それら虚実の歯車が高速でかみ合うような疾走感で紡がれていくミステリアスな物語。

デビュー作の芥川賞受賞作品「蛇にピアス」には腰を抜かすほどの衝撃を覚えたが、総じて緊張と不安と相反する開放感あるいは快感に近いもの、その感情の振幅に酔ってしまうようなそういう感覚を受けてしまう。次から次へと溢れ出てくるような、言葉と感情ががっちりと融合した世界。

本作においても主人公「リン」と彼女のフィルターを通して描かれる登場人物たちの生き様のようなもの、例えば単純な会話にしろ、その中の言葉遣いや仕草の描写も含めて、上部の苛烈さを強調しながら、どこか煙に巻きつつも「生きる」あるいは「生きていく」という本質めいたテーマを一切外さないその芯の強さは変わらない。

今読んでいる箇所は果たして「本当」のことなんだろうか、いや小説に「本当」ってなんだ? この緊張感の中で前述の苛烈さや爆走っぷりを持ってさらに曖昧さが増幅され、実はいつのまにか作家の仕掛けた「孔明の罠」にハマっているんじゃないかとそんなふうに勘繰ってもいるのだ。

出版社
小説 11

東京ロンダリング

原田ひ香

主人公の「りさ子」さんは訳あって東京都内の事故物件に一ヶ月だけ住むという仕事に就く。この奇妙で不可解な仕事は不動産業者の説明責任を回避するための事故物件浄化(ロンダリング)業であるのだが、と同時にりさ子さん自身の心の浄化を描いていく再生の物語でもあるのだ。

例えば不動産を取り扱うウェブサイトなどで備考欄に「心理的瑕疵あり」の文字が書かれた物件を見たことがある方も多いと思う。直前に誰かが亡くなった、孤独死か事故死か、それともただならぬ理由で死を迎えたのか、いずれにしろ穏やかではないその物件に一月でも住む理由とは、僕自身その辺の法律には詳しくないので詳細は省くがよくもまあそんな仕事を考え付いたものだと変なところで感心してしまった。ロンダリングとはよく言ったものですよ。

作家自身が元々はシナリオライターだったからなのか、場面ごとの風景や会話の言葉選び、テンポも含めて実に分かりやすく小気味好く進行していく。まるでドラマを見ているかのような描き方。構成に意地の悪さなど微塵もなく、分かりやすく読みやすい仕上がりになっていると思う。これから家についてアレコレある方は是非に。

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小説 9

となり町戦争

三崎亜記

アパートの郵便受けに入っていた「となり町との戦争のお知らせ」、開戦の日を迎えても町内はいつもと変わらない。だがある日あった町内広報誌には転出・転入・出生に加えて「戦死者」の数が示されていた…。

こんな導入で始まる主人公の住む舞坂町と「となり町」との見えない戦争を描いた物語。恐ろしいほどの空虚さの中で、徐々に現実味を帯びてくる戦争という状況。見えない恐怖に巻き込まれていく異様な様を緊張感を持って体感することができる一冊。なぜ戦争なのか、なぜ戦死者が出るのか、そういうミステリアスなテーマはもちろんのことだが、何より荒唐無稽なSFでもファンタジーでもない実社会と同様の世界観で描かれていることに注目したい。

もし明日郵便受けに出し抜けに「戦争のお知らせ」が入っていたら…。

漫画 2

イエスタデイをうたって

冬目景

コミックス第1巻が発刊されたのが1999年。最終巻である11巻は2015年、足掛け16年に渡って様々な意味で読者の気を揉み続けた大作(と言っていい)。後日譚や作家へのインタビューを載せた短編集「afterword」も含めて全12巻。

携帯電話もネットのやりとりも出てこない昭和のモラトリアムを味わえる。何も起きないし、何も始まらない、だがゆっくりと確実に掛かった時間以上の緩やかさで逡巡し葛藤する、それでも爆発するような激しさは勿論なく、どちらかと言えば下流の川の流れのようなそんな静けさ。おそらくこれが等身大というやつなんだと思う。

カラスを肩に乗せたハルというヒロインも決してエキセントリックなわけではない、もちろん「ああいたよねこういう娘」ということでもなく、何というか事も無げにただ在るというようなそういう感覚(或いは)描き方がこの物語では大事なポイント。