皐月文庫

歴史

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最終更新日2022年5月14日
漫画 30

スインギンドラゴンタイガーブギ

灰田高鴻

福井の田舎から東京にやってきた天真爛漫な「於菟(おと)ちゃん」は、川で溺れて魂を無くしてしまった姉の思い人「コントラバスを演奏する男」を探しに東京へとやってきた。世はまさに戦争直後のカオスな時代。ひょんなことから進駐軍相手にジャズを演奏するバンドと出会った「おとちゃん」は、偶然にもそのメンバーの中に思い人「オダジマタツジ」を見付けるのだった。戦後間もない混乱期の中、音楽という「希望」に翻弄される人間たちのドラマを疾走感たっぷりに描いた傑作。全6巻。なお本作は第24回メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞している。

特にこの敗戦直後の風俗を描いた物語などは、どういうわけかその熱量で他の歴史ものの追随を許さないと個人的には思っている。それは例えば幕末志士の奮闘だろうと安保闘争の激烈な総括であったとしても敵わないだろうなというくらいの熱さ。本作は特にそういう他の歴史風俗ものとは一線を画す形で迸る熱量を描ききっていると感じる。とにかく熱い作品なのだ。

物語の主人公はタイトル通りにタイガーの「おとちゃん」とドラゴンの「小田島龍治」なのだが一癖も二癖もある名脇役たちが二人を脅かすくらいにクローズアップされ物語の推進力となっていく。群像劇ではないがキャラクターを唯一無二の個性として丁寧に描いているという感触。時代性を考えた上でリアリズムを追求するのであれば、群像劇のような扱いは当然のようにも思えるが、本作が傑作足りうるのはそこに無駄が一切ないことだと思う。シリアスとギャグを行き来するドライブ感も実のところ、そうした個性の「無駄のなさ」こそなんだと思えば、その正体が見えてくるのかもしれないのだ。

幕間に描かれる小話を読むと、不意にこの作者のストーリーテリングには二重の仕掛けがあるように思えてくる。もしかしたら劇中劇のように個性を別の個性で包み込み、どこかで読者を煙に巻こうとしているのではないか、やりきるという作者の「気恥ずかしさ」を潰すためにそうした漫画的テクニックで強引に物語に仕立て上げているのではないか、そんな感覚だ。

いずれにしても、この作品の面白さはぶつかり合って生まれる疾走感、ドライブ感にある。あっという間に読めてしまう全6巻。絶妙な巻数であるし、幕の引き方もこれ以上ないほどに清々しい。良質のマンガ物語を読みたいのであれば、本書は間違いなくオススメしたいと胸を張って言える。

漫画 26

夜明けの図書館

埜納タオ

新人司書として暁月(あかつき)市立図書館に勤務することとなった「葵ひなこ(25歳)」のレファレンスサービスにおける奮闘ぶりを描いたいわゆるお仕事もの。一人の司書を通じて語られる図書館の様々な事情、「公共の書架」に馴染みのない方々には驚くような実態を垣間見られる稀有な物語と言ってよいと思う。連載期間約10年の歳月を掛けてこの度めでたく完結した、全7巻。

本好きにとって図書館は書店と並ぶ聖地のひとつではある。一方そこまでの本好きではなかったとしても図書館に対する感覚というのはおそらく共通してもっとも気軽に赴ける「公共施設」と言っていいだろう(実を言うとそうした各図書館ごとに蔵書のジャンルなどで特徴があることを知る人は多くはないかもしれない)。とにかく各都市・各地域には必ずあるこの図書館という存在とそこで働く司書、そして利用する側の様々な人間模様と照らし合わせて物語の核を成しているのが本書の特徴だ。司書が単なる「図書館の受付の人」ではなく、レファレンスというサービスを通じて「人」や「地域」とどう関わっていくのか、そうした「コミュニケーション」を「発見(もしくは再発見)」というゴールに向かって醸成されていく様を存分に楽しめる。

「図書の守り人」とはよく言ったものだがそれだけではないある種の謎解き要素「探偵もの」のような、事実や真実をひとつひとつ丁寧に紐解いていく過程は非常に興味深い。「答え」として何が適切なのか、過去の事情を照らし合わせたり、将来への事情を汲み取ったり、極めてドラマチックな言い換えれば人間味の溢れるストーリーを堪能出来ると思う。

地味に次巻を楽しみにしていた作品なので完結は少々寂しい気もする。主人公「ひなこ」の成長はまだまだ途上ではあるし、課題や問題は日々新しく上書きされていくに違いない。一方で「図書館」とそこにある「地域」の共生は今に始まったことではないし、終わったわけでもないのだ。長く続くある瞬間の一コマをただ切り取っただけに過ぎず、つまりは清々しいほどにサラリとした終幕こそ正解と思い込むことにした次第だ。

小説 26

みかづき

森絵都

実家の問屋業が失敗し、若くして働くことになった「大島吾郎」は小学校の用務員職に就く。しばらくして勉強の出来ない子供たちの面倒を見るようになると、信念のような独自の考え方で子供たちを導き、いつしかそれは「大島教室」と呼ばれるほどの評判となった。この物語はその吾郎と彼に私塾運営を託した後の妻「千明」、連れ子を含む3人の娘たちに彼女らの孫の3世代にわたって学校と塾の官民含めた日本の戦後教育を紐解く壮大な大河ドラマに仕上がっている。

3代続く大島家は、それぞれの時代性、時代の風潮をその個性にしっかり反映させている。戦前に教育を受けた人間の教育に対する疑念あるいは理想に始まり、詰め込み教育と揶揄された世代、受験戦争、そしてゆとり世代と明治から続く教育の諸問題は昭和平成に至ってもなお、結局は時の潮流と切り離すことは出来ない。政治や経済に振り回されながら教育とはどうあるべきか、答えることが難しい数々の問いに大島家の面々は立ち向かっていく。

一方で主人公と呼べる存在は作中には表立って描かれない子供たち自身とも言える。そういう意味で言えば千葉県八千代台という新興住宅地を舞台にした点も同様に作中で描かれる世代交代は非常に興味深く読めた。単に「子供が大人になる」だけではなく「子が親になる」ことの意味も含めて、本作は共通する「教育の何たるか」を考える良いきっかけになるだろうと思う。

僕ら団塊ジュニア世代にとって学問とはライバルを蹴落とすための「手段」であったという感覚を否定することが出来ない。学力とは知識とは等と論じる前にその結果が試験の点数に結びついていることを嫌が応にも叩き込まれた口だ。受験戦争とはよく言ったもので、今この年になっても「教育」という言葉にあまり良い思い出がないのも事実であるし、何よりその結果の就職氷河期なのだから多感な十代の頃を無駄にしてしまったのではないかという無念ささえ拭えないでいる。そういう観点からでも本書の描く世界というのは実に興味深く、また実態の伴った生々しい感触を得られる貴重な資料だと言える。そしてその世代にある個人としてもこの物語が深く心に残ったことを付しておきたい。

その他 5

鶴見俊輔全漫画論・一

鶴見俊輔

日本の哲学・思想史を語る上で決して外すことの出来ない哲学者・評論家の鶴見俊輔(1922-2015)による漫画評論集。全2巻ではあるが内容が極めて濃いので一巻ごとに投稿する(僕は読破に2ヶ月を要した)。鶴見俊輔と言えば、哲学者にしては破天荒な遍歴を持つ方なのだが、特に大衆文化としての「漫画」表現に並々ならぬ関心を持ち、面白い評論を数多く残していることでも知られている。戦前に連載漫画というスタイルをとった国内初めての作品「正チャンの冒険」から、戦後昭和初期中期頃の長谷川町子、手塚治虫、水木しげる、白土三平、つげ義春など主に大衆文化によって育まれ、社会と密接に関わりのあった作家・作品を評論の題材としている。もともとは幾つかの誌面で掲載された評論をまとめたもの、と言えば本作の仕組みが分かりやすい。内容が重複する箇所もそれ故である。

日本漫画史における(特に安保闘争の起こった)60年代辺りの「知」としての漫画のあり方については正直なところ僕の感覚ではよく分からない。現代の漫画のような「商品」でなかった時代の今となっては違う意味での多様性に歴史的、社会的、あるいは作家の生い立ちや感性などを踏まえて哲学者として切れ味鋭く、しかし視線はあくまで大衆の側として実に大らかにアクティブに論じている。鶴見俊輔の言う「どんなに偉い学者でも主婦の持つ思想には敵わない」というスタンスが漫画評論のスタイルとして生きている。

本作は漫画の評論集でもあり貴重な漫画史を記した歴史書でもある。19世紀にアメリカで興った漫画文化から「正チャンの冒険」に受け継がれて最早100年以上、漫画の意味も意義も目紛しく変化してきたがその端緒を知る上でも本作は最良の一冊と言える。

小説 21

小説ヤマト運輸

高杉良

宅急便(登録商標)が関係省庁や地元業者との壮絶な駆け引きの末にようやく生まれたサービスであることを僕らはほとんど知らない。この国内すべてを網羅した流通革命はどのように始まったのか。ヤマト運輸創業からの歴史を紐解きながらその内実に迫る壮絶なドキュメンタリー。

企業間の配送業務(大口貨物)から、顧客を「個人」に変える「小口便」の構想。当然ながらこのアイデアは内外からの激しい反発に晒される。しかし反対のない新しさに意味はないとでも言うような不敵さで、信念を貫くその一連の流れを創業時にまで遡って淀みなく詳細に描いているのだ。

また歴史ある大企業ならではの「組合」に関することや、クロネコヤマトのロゴマークに関するある一社員の秘話なども語られており、そういった人材に関する指摘も興味深い。経営者としての手腕、特に二代に渡るトップの生き様もさることながら、社員それぞれの多様で複雑な人間ドラマでもあるわけで、表題の通り「小説」としての面白さもまさにこの点にあるように思う。

余談だが、僕は20代の半ば頃にヤマト運輸で数年ほど契約社員として働いていた経験がある。あの時、まず最初に品川にあった教育施設で様々な研修を受けたのだが、とにかく事故の話について延々と解説されたことを今でもよく覚えている。繁忙期には目も眩むような荷物の量で、秒ごとに捌かなければ間に合わない時間配達のキツさ、不在時のガッカリ感だとか、まだネット販売がなかった頃であの状態だったのだから、現況は推して知るべしだ。

漫画 18

ニュクスの角灯

高浜寛

1867年開花期の日本・長崎。触れた物の過去や未来の持ち主を透視してしまう「美世」さんは、掴み所のない店主「モモ」が営む道具屋「蠻(ばん)」の売り子として雇われることとなった。世はまさに「パリ万博」。日本のものであれば工芸・美術品だけでなく、ただの包み紙ですらヨーロッパでは高値で取引される商品となる、これはそんな特別な時代で描かれる彼女と彼女を取り巻く人間たちの一種の冒険譚だ。全6巻。

幕末から明治初期に掛けての文化文明の混沌さは、僕個人としてはもはやスチームパンク的な面白さとイコールだったりする。その上で本書は「閉ざされてきた日本の文化風習」と「最先端の欧州文明」、まさに水と油のようなものの出会い、その端緒を紐解く一種の歴史書、解説書のような作りになっているのだ。

勿論そうは言ってもしっかり人間ドラマとしての体裁は外していないし、「大浦慶」や「松尾儀助」など実在した歴史上の人物の登場も物語に奥行きを与えていると言っていい。ただ一言(誤解を恐れずに)付け加えるならば、この物語では「女性」が大変強く色濃く描かれており、時代背景を考慮すれば、この点こそ本作におけるもうひとつの重大なテーマのように感じられたのだが。

いずれにせよ、作家の熱意というか「この時代、この世界は面白い、だから伝えたい」という欲のようものを嫌味なく受け取れる骨太の作品だと思う。

著者
出版社
小説 17

電車道

磯﨑憲一郎

我慢のならなかった薬屋の男と選挙に落選し後に電鉄会社を興す男二人の生き様を軸に、ただの集落であったある町のおよそ100年に及ぶ変遷を丁寧に紡いだ物語。大震災や戦争、その後にあった高度経済成長など、近現代の日本に起こった様々な事件を背景に、鉄道と町、鉄道と人など、社会のインフラとしての鉄道の役割、それに関わる人間社会の変容などが壮大なスケール感で描かれている。

例えば「A列車で行こう」という鉄道を軸にした都市開発系のゲーム(1985~)があるが、ご存知の方には「ああ、なるほどそういう話ね」と思われるかもしれない。二人の男のうち、電鉄会社を興した男はプレイヤーであり、元薬屋の男は町を作る前に既に居たNPCというような図式だ。

鉄道の歴史。それも国家としての一大事業ではなく、今日で言う私鉄のそれ。小さな思惑がやがて国家の在り様も変えていくようなそういう単純なお話ではなく、鉄道という「道」の存在をベースにしながらも、二人の男の人間臭い個人の物語を丹念に積み重ねて、また彼らと彼らの思いが受け継がれていくことによって社会がどのように変容していったか、ここにこの物語の面白さ、特異性があるように思う。鉄路がレールの一本一本で繋がれているように、大きな世界と小さな視点をうまい具合に融合させてバランスよく時間を流す、この仕掛けこそ本作品の真髄と言ってもいいかもしれない。

その他 2

漫画ノート

いしかわじゅん

伝説のTV番組、BSマンガ夜話(NHK/1996-2009)にてその歯に衣着せぬ物言いで有名だった漫画家いしかわじゅんの漫画評論集。この他にも同じテーマで書かれた書籍が数冊ある。

確か僕が中学生の頃だったと思うが「マンガ基礎テクニック講座」という書籍で作家いしかわじゅんへのインタビューを読んでいたこともあり、件の番組内でも手塚治虫以前以後の黎明期から当時の最新作までを網羅した漫画の歴史、漫画における表現のあり方、細かい技法、あるいはその系譜など、ただただ漫画そのものへの愛をもって語る姿に随分感銘を受けたのだった。

さて本作でもやはりその愛の掛け方は変わらない。ここで紹介されている漫画は全部で約170作品。時には漫画界への嘆きやそれに近しい指摘もあれば、漫画や漫画家に対する注文、赤ペン先生のようなツッコミ、そういうものすべてをひっくるめて興味深く読めるはずだ。

小説などの文芸作品ももちろんそうなのだが、漫画はより強く「商品」でなければならないというジレンマに晒されていると感じる。売れる売れないのキワに立たされながら、なぜこれほどまでに多様化し立派な文化足り得たのか、その答えを知るためにも本書は最適だろう。

漫画 12

茄子

黒田硫黄

スタジオジブリの映画「茄子・アンダルシアの夏(2003)」や続編「茄子・スーツケースの渡り鳥(2007)」をご覧になった方は多いと思うが、と同時に「茄子?」なんで「茄子?」と思った方もかなりの数いると思う。そしてそれらの奇妙な自転車ムービーに原作の漫画があったことを知っている方は意外にもあんまりいないんじゃないかなぁと感じている。全3巻。

黒田硫黄と言えば、絵筆を用いたまるで版画のような独特な絵柄でお馴染みだが、茄子という黒くて丸っこいあの造形物を描くにはもうもってこいなんじゃなかろうか、いやそんなことはどうでもいい、とにかくなぜ茄子なのか、茄子に纏わる、およそ茄子とは何の関係のない筋書きにさえ、強引に茄子をあてがう、茄子がなければ死んでしまう、そうして出来上がったこのお話は立派に全編「茄子による茄子のための茄子の物語」になっている。不思議なことに。

かなり前の話だがあの大友克洋のインタビューを読んだ時に漫画家のうちで自転車が流行していて云々という件があったので、もしかしたら短編アンダルシアの夏はその話と因果関係があるのかもしれない。だけどやっぱり茄子なんだよな。
ちなみにそのジブリ映画も本作の構成をあますところなく踏襲しているのはリスペクトゆえだろうと思う。それに僕が買った第1巻の帯では宮崎駿カントクが「このおもしろさが判る奴は本物だ。」と仰っているので、多分僕は本物。

漫画 11

愛と呪い

ふみふみこ

自伝ではなく半自伝として、ただ第1巻の巻末にある作家自身の言葉を借りれば「どうしても描きたかった」狂気の世界、救いのない現実と見えない未来の狭間、実際に起こった社会問題を取り上げながら、破壊され苦しんでいく主人公「愛子」の半生を描いた衝撃の物語。全3巻。

率直に言ってしまえば、僕なんかはもう二度と読みたくない、そういう強さ。一言で「不幸」と片付けてしまえばどんなにも楽だろうか、そんなふうにも思ってしまう。性的虐待、誹謗中傷、自殺未遂、ここで語られる悪意についてはもはや言うべき言葉もないし、果たしてこれが本当に誰かの救済になるのかどうかも分からない。だが事実そうだとしても、この作品を描き上げ、そして世に問おうとしている作家の姿勢には本当に頭が下がる。作家自身の力強い咆哮のようなそういう物語なのだ。

人間とは何だろう、社会とは何だろう、などと普段まったく考えない僕ら一般人も、そういう哲学めいた命題に何がしかの答えを出したいと思うかもしれない。いやその結果こうであってほしいという願望でしかなかったとしても、それがまったく「正常」であることを認知して幾らかは安心出来るはずだ。

小説 8

本にだって雄と雌があります

小田雅久仁

失礼ながらこんなふざけた表題で目を惹かないわけがない。しかしその実「本の位置を変えてはならない」という亡き父の遺言を破った主人公が遭遇する驚愕の光景と、そこから始まるミステリアスでユニークであらゆるジャンルが綯い交ぜになった壮大な冒険物なのである。

この物語に掛かれば偉人も日本語を喋るコミカルなただのおっさんと化すくらいのスケール感。とにかくもう夢中になって一気に読んでしまった。期せずして「少年の心を取り戻しちゃった…」という具合である。

この作品に登場するおびただしい知識量は、ちょうど図書館の本棚の端から端までを一緒くたにしたような、つまり本棚数個分の物語を破綻させずにひとつにまとめました的な印象。まさに本棚本。印象に残ったのはそういうカオスな物語であるにも関わらず、読んでいる最中にはその映像が鮮明に思い浮かぶこと。

もし自分が中学か高校の国語の教師だったら、夏休みの課題図書は間違いなくこの本にするつもりです。

その他 1

世界不思議百科

コリン・ウィルソン

まず最初に本書には「世界不思議百科(新装版含む)」と「世界不思議百科・総集編」の2編があり、それぞれで内容が異なる。前者は幽霊や超能力に超自然、ネッシーやUFOなどよりオカルティックな話題、後者はアーサー王やグローゼル文明など今でいう「都市伝説」が中心となっている。ただしいずれもその構成や解説の仕方に違いはないので本稿ではまとめて記すこととした。

まず本書の流れとしては以下の通りである。事件や事象など起こったことの事実を端的にまとめる。当時の新聞記事や目撃者の証言など、ありのままを伝えて、次にそれらの事実に対してどのような解釈があったのか、こちらも尾ひれを付けずに紹介する。その上でその言葉や説明の矛盾、誤りを論理的・理知的に指摘していく。例えば猿から人へ進化する間の証拠が未だに見つかっていない謎「ミッシングリンク」の章では「猿は集団で狩りをすることによって脳の容量を増し人間となった」とする言説に「集団で狩りをする狼は以前として狼のままである」と反論する。そんな具合である。結論を出すというより、真実は何かといった点に注力し、過去の様々な文献を引用しつつ、冷静に論じようとしているところは僕のような「懐疑派」であっても十分に好感の持てる構成になっている。

ただ単に「眉唾」だとか「ありえない」というふうでもなく、「真実だ」「それは存在している」と声高に主張するわけでもない。「悪魔の証明」という言葉が指し示す論理的破綻、一方で「科学は万能でもないし、すべてではない」とする立場をもって「現在の人類の叡智では到底説明できないことを無理に解釈しようとするから矛盾が起きる」だけなのだ。

本書はそんなオカルト的四方山話を一種の学問として捉え、紹介・評論する未曾有の資料集だ。そしていつの日か「心霊現象のすべてはこの数式で説明できる」という時のため、この書籍の果たす役割は想像以上に大きいのだと確信している。