皐月文庫

小説

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最終更新日2022年9月5日
小説 33

きみはだれかのどうでもいい人

伊藤朱里

県税事務所の納税部門に勤める二人、同じフロアの隣に配置されている総務部門の二人、とある事情で特別に採用された一人。年齢も立場も考え方も何もかもが違う女性五人の「個」がぶつかり合う模様を痛々しいまでに生々しく描いた傑作。物語に登場するすべての人物は結論から言ってしまえば表題の通り「だれかのどうでもいい人」なのかもしれないが、この小さなコミュニティの中で起こった事件や出来事の数々が多くの読者が思うであろう社会の縮図だとすれば、これほど身近で恐ろしく、また芯を突いた物語はない、そう思わせるほどの「どうでもよくない」力強さがある。

表面上は何処かにある事務所で日々の仕事のストレスに耐えながら淡々と業務を続けている女性たちのリアルな日常譚であり、20歳から50歳代の彼女ら女性公務員たちの奮闘記だ。一方でそういう体裁を保ちながら、人物の本質的な部分を抉り出すことに躊躇がなく、端的に言ってしまえば人間の醜い部分をきちんと露出させることでそれぞれの「個」の全体像を見せたいとする意図も見事に機能しているように思う。無論話はそんなに単純なものではないし、例えば無意識のうちにやってしまいそうな行動やパターンに言葉を与えたらどうなるのか、それぞれの関係性において仕掛けられた大実験の末に「個」とは何かみたいなものが詳らかになっていく作家の思考実験のような不思議な感触もある。

個人的にはこの物語をどのように思い描いたのか、どのような発想で書き連ねていったのか、作者の実体験なのか誰かの経験談なのか、その辺りがもう夜も眠れなくなるほどにものすごく気になるところだ。なんとなくではあるが、誰もが辟易するほどに人間を観察した結果ではなく、作家の内にある確固とした複数の人格を吐き出した、という感じがする。だからこそ内側に強烈に引っ張られるような感覚があり、容赦がないのだと思う。是非ご一読を。

小説 32

雪と心臓

生馬直樹

クリスマスの夜、主婦の不注意から燃え上がった火の手は瞬く間に炎上し一軒家を包み込んだ。間一髪で戸外へ逃げ出した彼女だったが、ふと見やると燃え上がる二階の窓から幼い少女が「助けて」と叫んでいる。取り乱す主婦。そこへ不意にやってきた「その男」が炎を物ともせず家に飛び込み、やがて少女を助け出すことに成功する。しかしその男は助け出した少女を主婦に渡すことなくその場から立ち去ってしまう。その男はなぜ少女を助けたのか、少女を抱えたままどこに向かおうとするのか、そして彼とは一体何者なのか。スパイアクションを彷彿とさせるような強烈な冒頭を経て紡がれるその男と双子の姉の物語。

一気に読むべきだと帯に書かれてある通り、小説でありながら時間や空間の描写・捉え方が映画やドラマなどの映像作品に近しいような感覚がある。冒頭の大きな事件から不意に男の過去へと飛び、そこで男には双子の姉がいたことが明らかになるが、物語としてはその姉が筋となる。彼女との思い出とともに男の在りようがどう変化していくかを紐解いていく、そういうストーリーになっている。時間的な揺らぎはあるにせよ、そういう意味では「起承転結」に則った物語らしいドラマと言えるかもしれない。

ただ一方その結末については賛否ありそうだなとも感じた。物悲しさはあっても次に繋がるような希望を見せた方が良かったのか、あるいは潔く幻想的な終幕を迎えてもこの筋書きでは正しかったように思う。長い長い過去の物語から一瞬の出来事でしかない「今」の描写にあって、ようやく繋がったその瞬間にグッとくる「意味」があること、この仕掛けの奥深さを表現するにあたって何が良かったのか、これは読み手各々で議論できる余地が多いにある。

とにかく我々が思い描く理想の生き様とは何かを思い描くには最良の作品だと思う。それは「なぜ生きているのか」というようなややもすれば衒学的な言い回しになりそうなデリケートな問い掛けではなく、もっともっと身近でありふれたものに違いない。そういう誠実さをこの物語では味わうことが出来ると思う。

小説 31

ワーカーズ・ダイジェスト

津村記久子

舞台は大阪、デザイン事務所に勤めるデザイナーの「奈加子」は副業でライターの仕事もこなす32歳。一方ナカセガワ工務店に勤める同じ32歳の「重信」は東京から故郷の大阪に転勤となり実家に戻ってきた。何の接点もない二人がお互いに打ち合わせの代理という立場で初めて顔を合わしたのは大阪駅にあるホテルのロビーだった。表題の「ワーカーズ・ダイジェスト」に短編「オノウエさんの不在」も含めて会社員の薄い悲哀を綴ったまさにダイジェストな日常譚。

この作家の人物描写には本当にいつも驚かされる。絶妙な距離感があって、例えばそれぞれのキャラクターにぐっと寄って深層を抉り出そうとするわけでもなく、読み手がある意味神様のような視点に立ってただただ箱庭を眺めていくわけでもない、まさに彼ら彼女らの頭の上にいるような、そう今風に言えばGoPro映像のような感覚、本作においてもその感覚はもちろん健在で、なおかつサラリーマンたちの頭上数センチに立って垣間見るわけだから、何だか無性に叫びたくなるような生々しさにグッとくる。ところが不思議なことに感情移入云々というような物語で有りがちな楽しみ方がここではし辛い。登場人物たちの生音が聞こえてくるような場所にいるのに、どういうわけかフッと二三歩引いて読んでいる自分に気付く、これが驚きの理由になっている。

よくよく読んでみればそれぞれのキャラクターはかなり特異な方だ。何かにコダワリがあり、悩みもあり、ちょっとづつ失敗もする、好きも嫌いもやたらに溢れていて妙に鼻を突く人間臭さがある。ところがそんな人物があっても日常のアレコレが覆るような大きな事件が起きるわけでもないので、おそらくこの辺のバランス感覚、人物と背景のマッチ具合が多分キモなんじゃないかなと読後に思ったのだけれども、果たしてどうだろうか。

とにかく何度も言うようにこの作家は観察の人だと思う。それは本当にどの作品を読んでも強く感じる。あるいは「観測」の作家であって、作家である彼女が見たものが「事実」として小説になるような、そういう自然な創作の流れを体験出来ると思う。

小説 30

離陸

絲山秋子

国交省からとあるダム現場に出向した「佐藤」は、ある夜外国人(屈強な黒人)の突然の訪問を受ける。佐藤の元恋人「乃緒(のお)」は奇妙な名前の息子をフランスに残して失踪しており、一緒に探し出してほしいと言う。なぜフランスなのか、その子の父親は誰なのか、そして彼女は今何処で何をしているのか。その瞬間から日本やフランスなどいくつかの国を跨いだ壮大でミステリアスな物語が幕を開けるのだった。

主人公である佐藤を軸としながら、彼自身と彼にまつわる「人生」にスポットライトを当てて、肝心なところはぼかしつつもその実痒いところに手が届くような繊細さで描写がなされている。例えば冒頭に描かれる山奥のダムに風景や飛び先でもあるフランスの街とその路地裏の描写など、必要最小限度の文体で「そこにいる感」を軽々と演出しているふうに思う。このある種の軽妙さは、主人公「佐藤」の性格あるいは心理状態と常にリンクしていて、まるで狂いのないメトロノームのように、スラスラと先んじてしまう心地よさがある。それはまさしくこの作家のセンスだと言えるのだが、そういう言葉では何とも説明のし難いセンス(敢えて魅力と言う)として、この作家ほど分かりやすい方はいないんじゃなかろうかとも感じるのだ。

失踪した女優「乃緒」を求めていく過程で不意に提示されるミステリアスな展開、SFかファンタジーか「これはそういう類のお話でしたっけ?」と読み手の中に現れる疑念。この仕掛けが実に面白い。この疑わしさの中、本質は決してブレずにただただ真っ直ぐ進んでいく。つまり表題の「離陸」の通り、この物語はその終盤まで長い長い滑走路を直進しているに過ぎないのだ。だからこそその答えに迷いがない。間違いがないとも言えるのだろうが、このあたりはボク自身ももっともっと読み込まないと確信には届かないだろうなと。そういう点でも読み応えのある作品だと思う次第だ。

小説 29

ジャージの二人

長嶋有

二度の離婚をして更に三度めの結婚もうまくいっていないカメラマンの「父親」と妻に不倫をされてもなおウジウジと決めかねている「息子」が祖母の残した軽井沢の別荘で過ごす避暑のための数週間。大量に残された学生用ジャージに着替えて、何をするわけでもなく、親子揃ってダラダラと夏を越していく。まるで映画のワンシーンワンカットのような切れ目のない文章、何処か地に足の着いていないフワフワとした登場人物たち。ストーリーとテンポが噛み合わない不思議な非日常系日常譚。なお文庫版には表題の「ジャージの二人」に後日譚としての続編「ジャージの三人」も収録されている。

久々に小説を読んでいて「ウッ」となった。面白い、何も起こらないのに面白い。で、面白いんだけど、その実ものすごく読み難い。このセリフは一体誰の言葉なんだとか、そういうふうに視点視座が当然のように「わかっていますよね」と勢いで紡がれていく。読むためにはまず作者の頭の中に入り込んで情景を共有し、次いで登場人物たちに入り込んでその空間が一体何なのか把握する必要がある。しかしこの作業が無意識にできるようになると、急に視界が彼らのものにジャックされて妙に生々しい物語となる。これがこの作品の最大の魅力のひとつだと思う。

勿論こんな仕掛け(あるいは作風めいた)というのは別段新しいものではないだろうし、珍しいものでもないんだろうけど、どうにも他に説明のしようがないのだ。先ほど言った映画のワンシーンワンカットというのは若干強引な例えではあるのだけど、個人的には正しいと感じているのでよく言われる「臨場感」とは別に敢えてもう一度言及してみる。つまりこうだ、書かねばならない情報は連続している、それは原因と結果の反復であり、それこそ時間を軸にしたリアルさである、都度あらわれる様々な事象や思考の変遷を脚色なく鎖のように繋いでいくことで物語に嘘臭さがなくなり、その結果作品世界と読み手の間の距離感が限りなくゼロに近付いていく、とこんな具合だ。

「父子から魔女じゃないかと疑われている友人」「携帯電話のアンテナが3本立つ場所」「ほとんど気を使わない犬臭い犬」というような気になる仕掛けがありつつも、表題の通り蓋を開けてみれば結局は「ジャージの二人」ではあるのだが、この一筋縄ではいかない(あるいはいかないように装っている)この究極の距離感こそ、味わってほしい本作最大の魅力と言える。そして図らずも一気に全部読んでしまう、そういう類の小説なのだ。

小説 28

明日の僕に風が吹く

乾ルカ

医者の家系に生まれついた「有人」は、幼い時に見た機内での叔父の姿に憧れてやはり医学の道を志す。しかし思い描いた医者への道は中学二年の晩夏に起こったクラスメイトの「道下」さんに纏わる事件によって自ら閉ざしてしまうのだった。そうして長い期間引きこもりとなった有人に優しく問い掛ける憧れの叔父。いつしかその叔父の手によって北海道の離島まで連れ出されることになる。これは取り返しのつかない失敗に苛まれた主人公の未来を取り戻す長い長い再生の物語だ。

この前に読了した同作家の「夏光る」は一言で言ってしまえば怪異譚ではあったが、その創造性あるいは空想的な広がりにおいて独特な味わいがあったように思う。実に美しい作品だった。翻って本作は極めてスタンダードでまたオーソドックスな作品だと思う。挫折からの再生という「青春もの」の王道を貫いているし、何より「ここではない何処か」への道筋を東京から北海道の、それも離島という格別な場所に導いていくことからも、作家本人が仕掛けたこのジャンルへの真っ向勝負ではと勘繰ってしまうほどだ。ここで語られている幾つかの伏線もまた結局は本筋を奮い立たせるためのスパイスに終始する。これをどう感じるかは読者次第だと思うが「夏光る」とは明らかに異なる文章・文体に戸惑う方もいるだろう。

いわゆるアナフィラキシー(アレルギー)の命に関わるような症状やその状態、あるいは物語の大勢を占める「離島医療」の問題、距離感はあっても誰かの日常には違いのない事象について、突きつけるような使命感めいたものをヒシヒシと感じてしまう。そうした雑味のないストレートなひたむきさを味わうには本作は打って付けではないだろうか。僕らの日常はそんなふうに切り取られていくものだときっと感じ入るに違いないし、そういう純粋さもまた物語の魅力なのだと再確認出来ると思う。

小説 27

高架線

滝口悠生

池袋に程近い西武線東長崎駅から徒歩5分、線路側、踏切間近に建つ古アパート「かたばみ荘」を舞台にその住人たちの一時の人生模様を描いた物語。出ていく住人が次の住人を探してくるという奇妙な条件、アパートに不具合が出ても大家がほとんどDIYのノリでカタをつけるためメンテナンスはないに等しい、で家賃は格安の3万円。アパートに伝う電車の通過、踏切の音、そんなボロボロのアパートに住まう人間たちとその周辺のややネジの緩んだ生活の有り様を日記のような気軽さで飄々と語っていく。

「○○です。」という自己紹介から始まる不思議な構造、内外入り乱れる文体に唐突に区切る文句、誰に向けられているのか曖昧な表現、このモヤっとした言葉の使い方はリアルな「日常」の中の出来事を語るに相応しい。一方で彼ら彼女らは決して奇特な部類の人間ではなく、平凡でありきたりな都会の個性であり、決して特異なサンプルではない。物語の終盤に向かって怒涛のように明かされる事実も単なる稀有な出来事だと片付けるには野暮というものだ。そうした奇妙さやおかしさ、言い換えればある種の「都合の良さ」こそ本質を覆い隠すための装いであって、本質から遠ざけようとする仕掛けに過ぎない。外側の「遊び」の部分と内側に込められた「思い」を味わう、これこそ本作の肝ではないだろうか。

家のひとつひとつ、部屋のひとつひとつに住人がいて、それぞれの生活や生き様があるという当たり前の事象に改めて気付かされる。「他人が(それも無数に)個として生活している」ことの重大さはマクロな視点で考えざるを得ない現代社会の、それも都会という場所の問題を詳らかにするのと同時に、その膨大な「個」の情報量にある種の神々しさや美しささえ感じてしまうのは、それが人生を抱える紛れもない「命」だからではないか。この感覚を物語の最後に高架を行く車窓から登場人物たちが受け取るのは印象的であるし、何よりその腹の中に新しい「命」が宿っていることも見逃せない。連環というと月並みなテーマに陥りそうではあるが、取っ掛かりを奇妙なアパートの生活から初めてこの終幕に落とし込む作家の仕掛けに、やはり神懸かり的な美しさを感じてしまったのだ。

小説 26

みかづき

森絵都

実家の問屋業が失敗し、若くして働くことになった「大島吾郎」は小学校の用務員職に就く。しばらくして勉強の出来ない子供たちの面倒を見るようになると、信念のような独自の考え方で子供たちを導き、いつしかそれは「大島教室」と呼ばれるほどの評判となった。この物語はその吾郎と彼に私塾運営を託した後の妻「千明」、連れ子を含む3人の娘たちに彼女らの孫の3世代にわたって学校と塾の官民含めた日本の戦後教育を紐解く壮大な大河ドラマに仕上がっている。

3代続く大島家は、それぞれの時代性、時代の風潮をその個性にしっかり反映させている。戦前に教育を受けた人間の教育に対する疑念あるいは理想に始まり、詰め込み教育と揶揄された世代、受験戦争、そしてゆとり世代と明治から続く教育の諸問題は昭和平成に至ってもなお、結局は時の潮流と切り離すことは出来ない。政治や経済に振り回されながら教育とはどうあるべきか、答えることが難しい数々の問いに大島家の面々は立ち向かっていく。

一方で主人公と呼べる存在は作中には表立って描かれない子供たち自身とも言える。そういう意味で言えば千葉県八千代台という新興住宅地を舞台にした点も同様に作中で描かれる世代交代は非常に興味深く読めた。単に「子供が大人になる」だけではなく「子が親になる」ことの意味も含めて、本作は共通する「教育の何たるか」を考える良いきっかけになるだろうと思う。

僕ら団塊ジュニア世代にとって学問とはライバルを蹴落とすための「手段」であったという感覚を否定することが出来ない。学力とは知識とは等と論じる前にその結果が試験の点数に結びついていることを嫌が応にも叩き込まれた口だ。受験戦争とはよく言ったもので、今この年になっても「教育」という言葉にあまり良い思い出がないのも事実であるし、何よりその結果の就職氷河期なのだから多感な十代の頃を無駄にしてしまったのではないかという無念ささえ拭えないでいる。そういう観点からでも本書の描く世界というのは実に興味深く、また実態の伴った生々しい感触を得られる貴重な資料だと言える。そしてその世代にある個人としてもこの物語が深く心に残ったことを付しておきたい。

小説 25

青が破れる

町屋良平

殻を破ることが出来ないボクサーのひと「秋吉」と予想もしない方向に感情を爆発させる親友の「ハルオ」は、退っ引きならない病で入院しているハルオの彼女「とう子」さんのお見舞いに向かっている。死がすぐ目の前にあっても「老後の心配をしなくて済む」と朗らかに振る舞うとう子さんの姿。ジムの仲間「梅生」や不倫中の彼女「夏澄」とその子「陽」など、秋吉を取り巻く面々は、臆面もなく無邪気にもどこか老成している。この作品「青が破れる」の言葉の通り、端的に言ってしまえば「喪失」をテーマにしたいわゆる青春譚のひとつだ。

物語をレイアウトする、もしくは言葉をデザインする、といった類の評価の仕方があり、その題材に相応しいものは何かと言えば、本作はまさにうってつけのようにも思える。主人公「秋吉」の言葉は内外ともにプリミティブで、キャラクターの目線に立った文体が妙に生々しく見えてしまう。「知って」か「しって」なのか、そうした細かい漢字や仮名の使い分けに留まらず、キャラクターとしての逡巡が弾むようなリズムとテンポで描かれている点、言葉の少ない主人公の等身大の感覚に倣って掴み取ることが出来るリアルさ。この一種の肌感覚が本作の醍醐味のひとつだと思うし、そういった感情の変化変遷だけではなく、ボクシングや病室、車内の情景、川や街の風景にすら、鮮烈で荒々しい「味」や「音」「匂い」を漂わせてくるのは、何かを捨てても選び抜いた言葉がその世界にとって真に適切であり、「理に適っている」からではないか、そんなふうに感じて仕方がないのだ。

青春とは何か、という定義はもはや喧喧囂囂、言うことすら憚れる部分はあると思う。太古の昔からある通り「喪失」あるいは「解放」を謳い「ここではない何処か」へ歩みゆく様が青春であるとすれば、本作は一片の躊躇いもなく確信的で、かつアイデアに満ちたソリッドな青春文学だと断言してよいと思う。

小説 24

雨上がりの川

森沢明夫

川沿いに建つマンションの3階には編集者で夫の「川合淳」と元研究職員で妻の「杏子」、些細ないじめ問題から不登校になってしまった一人娘「春香」の3人が暮らしている。顔に傷を負い、引き篭もってしまった娘にどう接すればよいのか分からない夫、淀んだ川のようなぬるりとした状況の中、追い込まれた理論家の妻が次第に不可解な行動を見せ始める。その影には驚くべき異能の力で評判の一人の霊媒師の姿があった。

「霊能」や「霊視」といった怪しいワードがあり、本当にそれが「真」であるのか、疑いきれない絶妙なニュアンスを含ませつつ、ミステリアスな雰囲気を感じながら一気に読める作品、正直なところ物語の感触としては往年の探偵もの、推理小説に近い気がする。おそらくそういったジャンルに馴染みのない読者には読後の「解答」はきっと心地よく感じるはずだし、勘の良い読み手にとっても冒頭から随所に散りばめられた「トリック」にニヤリとするに違いない。そんな仕組みで登場人物のそれぞれに視点をあて、見方を限定させないやり方も緊張感を持続させるには持ってこいだったのだろう。事実、その結果として本筋である「ネタ」をうまい具合に覆い隠すことに成功しているし、「落ち」である答え合わせの際には臨場感さえ感じてしまった。「カタルシス」というとちょっと語弊があるかもしれないが、似たような清々しさに浸れるポジティブな物語だと思う。

もう一点特筆すべき事柄として、一貫して描かれる人間の持つ「正しさ」、善なるものの性質によってのみ物語が進んでいく点にある。それはもちろん胡散臭い敵役にも向けられていて、それぞれの事情を蔑ろにすることは決してない。どう解釈するかは人それぞれだとは思うが、こうした「優しさ」や「暖かさ」を本作の特徴として捉えてもきっと問題はないはずだ。

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小説 23

海の見える街

畑野智美

市立図書館の司書「本田」さんはインコを飼っている草食系男子。同僚で化粧っ気のない「日野」さんは「本田」さんからもらった亀を飼っており、階下の児童館に勤める「松田」さんは人には言えない趣味のせいで金魚に並々ならぬ思いがある。淡白だったその輪の中に、ある日派遣職員としてウサギを連れたコケティッシュな小悪魔系女子「鈴木」さんがやってくる。この物語はそんな3人+ワイルドカードな関係図で描かれる海辺の図書館を舞台にした恋愛小説だ。

題名の「海の見える街」の通り、ところどころにジブリ映画「魔女の宅急便」を想起させる設定が垣間見られる。特にその表題曲の雰囲気が似合うようなテンポで物語は進んでいくのだが、解説にあった「大人のための恋愛小説」というより、歯切れのいい心地よいリズム感で各個性のぶつかり合いを楽しむ群像劇のようである。

4人は各々固有の問題を抱えてはいるが、共通して友達が少なく、そして恋愛が上手くない。揃いも揃ってまあ何だろうこの人たちはと言いたくなるキャラクター像は、前述の動物「インコ」「亀」「金魚」「ウサギ」にもカラクリが施されていてるわけで、人間の側と動物の側のそれぞれに個性を忍ばせた挙句、図書館という特異な場所を舞台にした結果、不気味なほど妙にリアルな「個」を得てしまったのではないか。たとえばコメディのような非日常的な事件が起こっても違和感をまったく覚えないのは、そんなふうに多面的重層的に表現された彼らの個性に大きく依っているように思う。

恋愛ものにあまり詳しくない僕なんかでも、この物語には幾らでも深読みできる奥行きがあるんだろうなと、なんだかそんな「してやられた」感に最後まで取り憑かれたままだった。多重構造の恋愛小説、嫌いじゃないです。

小説 22

神去なあなあ日常

三浦しをん

フリーターでもやって食っていこうと心に決めた「平野勇気」は担任「熊やん」の策略にハマり、高校卒業と同時に三重の山奥で林業に従事することとなった。生まれ育った「横浜」とは違う、のんびりとした山奥の小さな集落「神去村」。果たして彼はいっぱしの「男」になれるのか、その奮闘ぶりを描いた青春模様。なおこの物語の後日譚「神去なあなあ夜話」含めて「神去シリーズ」全2巻。

「なあなあ」というのは方言のひとつで冒頭その説明から入るのだが、もうこの時点でこの作品の雰囲気が何となく読み取れてしまう。肩の力が抜けるような「ふわっ」とした感覚だ。これが実に気持ちがいい。そんな方言のマジックに彩られて、林業という過酷な仕事の裏と表を安心して受け取ることができてしまうのだ。

ところでこの「ふわっ」と感はどこからこの世界を見ているのかという「視点」にも影響を与えている気がする。例えば物語は主人公の「勇気」の目線で描かれているはずなのに、なぜかそれよりも強く上位の視点・存在を感じてしまいドキッとしてしまう。テーマとして大いなる自然を相手にしているからなのか、それともこの作家の為せる技なのか、どこか「勇気」の親にでもなった気分で、寄ったり引いたりを繰り返しながら、吸い付くように一気に読んでしまったのだった。

自然の厳しさや恐ろしさを知った上で、どのように山と向き合い、付き合ってきたのか、村の風習やそれにまつわる不思議な逸話など、物語の奥行きは想像以上に深く広がっている。都会らしさから切り離されて、ゆっくりとその山の一部となっていく「勇気」くんに優しい拍手を送りつつ、今ある自分が何をすべきか、ちょっとだけヒントをもらったようなそんな印象である。