皐月文庫

とあるデザイナーが読了した本の記録と感想。小説、漫画、その他書籍全般、ジャンルを問わず、タイトルや装丁デザインにピンときた本を手当たり次第に読んでいます。皐月文庫についてお問い合わせ 分類 小説漫画その他 属性一覧 著者出版社タグ 但しビジネス書やいわゆる自己啓発本の類いには興味がありません。人間らしい生活感の溢れた物語作品が好きです。

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最終更新日2022年5月14日
漫画 30

スインギンドラゴンタイガーブギ

灰田高鴻

福井の田舎から東京にやってきた天真爛漫な「於菟(おと)ちゃん」は、川で溺れて魂を無くしてしまった姉の思い人「コントラバスを演奏する男」を探しに東京へとやってきた。世はまさに戦争直後のカオスな時代。ひょんなことから進駐軍相手にジャズを演奏するバンドと出会った「おとちゃん」は、偶然にもそのメンバーの中に思い人「オダジマタツジ」を見付けるのだった。戦後間もない混乱期の中、音楽という「希望」に翻弄される人間たちのドラマを疾走感たっぷりに描いた傑作。全6巻。なお本作は第24回メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞している。

特にこの敗戦直後の風俗を描いた物語などは、どういうわけかその熱量で他の歴史ものの追随を許さないと個人的には思っている。それは例えば幕末志士の奮闘だろうと安保闘争の激烈な総括であったとしても敵わないだろうなというくらいの熱さ。本作は特にそういう他の歴史風俗ものとは一線を画す形で迸る熱量を描ききっていると感じる。とにかく熱い作品なのだ。

物語の主人公はタイトル通りにタイガーの「おとちゃん」とドラゴンの「小田島龍治」なのだが一癖も二癖もある名脇役たちが二人を脅かすくらいにクローズアップされ物語の推進力となっていく。群像劇ではないがキャラクターを唯一無二の個性として丁寧に描いているという感触。時代性を考えた上でリアリズムを追求するのであれば、群像劇のような扱いは当然のようにも思えるが、本作が傑作足りうるのはそこに無駄が一切ないことだと思う。シリアスとギャグを行き来するドライブ感も実のところ、そうした個性の「無駄のなさ」こそなんだと思えば、その正体が見えてくるのかもしれないのだ。

幕間に描かれる小話を読むと、不意にこの作者のストーリーテリングには二重の仕掛けがあるように思えてくる。もしかしたら劇中劇のように個性を別の個性で包み込み、どこかで読者を煙に巻こうとしているのではないか、やりきるという作者の「気恥ずかしさ」を潰すためにそうした漫画的テクニックで強引に物語に仕立て上げているのではないか、そんな感覚だ。

いずれにしても、この作品の面白さはぶつかり合って生まれる疾走感、ドライブ感にある。あっという間に読めてしまう全6巻。絶妙な巻数であるし、幕の引き方もこれ以上ないほどに清々しい。良質のマンガ物語を読みたいのであれば、本書は間違いなくオススメしたいと胸を張って言える。

漫画 29

バクちゃん

増村十七

遠いバクの星から東京メトロ(!?)で地球の日本にやってきた獏の「バクちゃん」の夢追い冒険物語。全2巻。よくデザインされた絵本のようなタッチ、ヒネリの加わった言葉遊びやパロディなど、独特なセンスを含めてあらゆるコマから作者の絵に対する拘りが見付けられるような熱く美しい物語に仕上がっている。そう、ここ最近読んだ物語の中でも熱量の高い作品のひとつだと思う。それは単にコマのひとつひとつに拘りを持って描いているだけではなく、このタッチにあってもなお現実の社会問題に真っ向から切り込んでいるからだ。

もはや草木すら夢を見ない貧困のバク星からやってきた「バクちゃん」は、電車内で溺れかけているところを名古屋からやってきた人間の「ハナちゃん」に助けられて、そのまま同じアパートに下宿することとなった。様々な宇宙人たちが溢れる社会でそれぞれがそれぞれの悩みを抱えて生きている中、永住権を手に入れるため奮闘する「バクちゃん」。うーん、こうして冒頭の圧倒的な自由さを文章に置き換えてしまうと途端に「なるほど、そういう話か」となってしまうこの残念さはなんだろう。このワクワク感が急に色褪せてしまって口惜しさすら感じてしまう。

ここで語られるテーマ、例えば「移民」の問題などはむしろ導入でしかなく、もっと根源的な「社会」や「人間」そのものに向けられており、「バクちゃん」が「夢」を食む獏であることの意味や意義とひとつに考えなくてはならない。「夢」はボクらの原動力になっているのだろうか、あの人はどうだろうか、この人はどんな「夢」を持っているのだろう、もしかしたら他人の「夢」に気付いていないだけで、この社会は「夢」で溢れているのではないか。外から見きれない人間にとって、読後のこの優しい気付きにこそ大きな意味があるような気がしてならないのだ。

寓話だね、イソップかもと片付けてしまうと何だかやるせない感覚はあるのだが、微妙に外れたコメディ感が何とはない嘘臭さを醸し出していて、重いなという印象はまったくない。これは読み手としては結構重要であり、表現の場として漫画を選んだのは成功していると思う(漫画があって内容があったのだと思うが)。ただ如何せん物語で語りたい多様な「夢」と同様、いろんな人に読んでもらわないとどうにもならない歯痒さがあるので「もうとにかく読んでほしい」とその一言に尽きる。

漫画 28

空電の姫君

冬目景

かつて一世を風靡した伝説のロックバンドのギタリストを父に持つ女子高生「保坂磨音(まお)」と周囲の目を引かずにはいれない美人の同級生「支倉夜祈子(よきこ)」を軸に繰り広げられるバンド譚。ボーカルを事故で失ったバンド「アルタゴ」の面々や過去の面影をまったく感じさせない冴えない父とその周囲など、キャラクターの隅々まで冬目節が唸る生粋の青春モノだ。とはいえ本作を語る上での最も重要なポイントと言えば、その冬目節によって描かれる「ギターを掻き鳴らす女子高生(磨音)の図」、これに尽きる。なお本作は全6巻ではあるが最初の3巻は「空電ノイズの姫君」として幻冬舎より出版、その後講談社に移籍して続刊された。

冬目景の描く世界にはどういうわけか独特のリズム感があって、この感覚を言葉にするのは非常に難しいのだが、本作の題材にもなっているロック(多分グランジ・オルタナ系)ではなく、ジャズとかプログレといったようなその場の空気感を基調とするような雰囲気、すべてのキャラクターに波長のようなものが揺らめいていて、個としての側面をチラつかせながら、それぞれが交差する時に驚くほどミックスされたひとつの音になるような、そういう不思議な感覚がある。村上春樹的なニュアンスというか・・・、うん、ちょっとうまく言えないのだけど、ある種突き放したような視線を読者は持ち合わせつつ、何故かキュンとしてしまうシンクロ感を交互に味わえる不思議な作風、というような、まあ簡単に言ってしまえば他ではまあ味わえない「独特」な漫画なのだ。

だからこそ冬目景の描く世界と「音楽」はベストマッチだと言わざるを得ない。

本作はもともと短編として企画されたようで、意図せず長編になったと最終巻で作者が書き記しているが、まったく逆に「イエスタデイをうたって」のような大長編であったならば、最終巻の強引さには気付かなかったかもしれない。しかしながら前述の通り冬目景が描く「ギターを持った女の子の図」で多分この物語の魅力はほぼ完遂していると言っても過言ではないので、個人的には良作のひとつに加えたいところ。

漫画 27

廃墟のメシ

ムジハ

無数の巨大な廃墟に覆われた世界で、遺物を求めて探索する「探索師」の少女「ハルカ」と喋る箱「ソル」の冒険を綴ったいわゆる「終末もの」に類する物語。ただし彼女たちが求める遺物とは料理という概念がなくなったその世界にあって数千年前に滅んだはずの「カレー」であり、枠に嵌めたような悲壮感や絶望感は皆無。どちらかというと「お笑い」的要素に溢れた健全で健康的なユルいSF作品、と言っていいと思う。全4巻。

もちろん巨大な構造物とそこに蠢く虫のようなロボットたち、ポストアポカリプス系ではありがちなヒャッハーな戦闘狂など、異様な舞台設定や派手な戦闘シーンも用意されている。しかしあくまで「カレー」のための物語であり、更に言えばラーメンやハンバーガーでもない「カレー」であるというところが極めて重要な示唆になっているのだと思う。カレー粉にそんな効能があったのかというツッコミはさておき、そうした細かい設定も含めて裏に驚愕の真実があることを詳らかにしていくのだが、その行く末に「カレー」が何故テーマとしてなり得たのかはかなりの確信を持って納得できるはずだ。

人間の三大欲求や衣食住に関する諸事情をテーマにした作品というのは、普遍的な題材だけに取り扱いが非常に難しいのではないかと感じている。結局のところ「どう満たすか(あるいはどう満たさないか)」であって筋書きとしては一辺倒になり易く、またそれ以上にもし難い大人の事情(例えば社会通年や倫理観を持ち出してしまう場合など)があり極論を描くには相当な覚悟が必要だろう。何かに触れない範囲でオリジナリティを追求するにはやはりアイデアで抗するしかないのだが、SFではわりと疎かになりがちな「食」がテーマである点、その世界の日常にきちんとアプローチしようという姿勢、こうしたある種の真面目さこそ本作のユニークなストーリーに一役買っているように見える。

もちろんそこまで仰々しい話ではないのだけど、もしかしたら現代社会の各方面に一石を投じているかもしれないという点でもなかなか侮れない楽しい作品だと思います。

漫画 26

夜明けの図書館

埜納タオ

新人司書として暁月(あかつき)市立図書館に勤務することとなった「葵ひなこ(25歳)」のレファレンスサービスにおける奮闘ぶりを描いたいわゆるお仕事もの。一人の司書を通じて語られる図書館の様々な事情、「公共の書架」に馴染みのない方々には驚くような実態を垣間見られる稀有な物語と言ってよいと思う。連載期間約10年の歳月を掛けてこの度めでたく完結した、全7巻。

本好きにとって図書館は書店と並ぶ聖地のひとつではある。一方そこまでの本好きではなかったとしても図書館に対する感覚というのはおそらく共通してもっとも気軽に赴ける「公共施設」と言っていいだろう(実を言うとそうした各図書館ごとに蔵書のジャンルなどで特徴があることを知る人は多くはないかもしれない)。とにかく各都市・各地域には必ずあるこの図書館という存在とそこで働く司書、そして利用する側の様々な人間模様と照らし合わせて物語の核を成しているのが本書の特徴だ。司書が単なる「図書館の受付の人」ではなく、レファレンスというサービスを通じて「人」や「地域」とどう関わっていくのか、そうした「コミュニケーション」を「発見(もしくは再発見)」というゴールに向かって醸成されていく様を存分に楽しめる。

「図書の守り人」とはよく言ったものだがそれだけではないある種の謎解き要素「探偵もの」のような、事実や真実をひとつひとつ丁寧に紐解いていく過程は非常に興味深い。「答え」として何が適切なのか、過去の事情を照らし合わせたり、将来への事情を汲み取ったり、極めてドラマチックな言い換えれば人間味の溢れるストーリーを堪能出来ると思う。

地味に次巻を楽しみにしていた作品なので完結は少々寂しい気もする。主人公「ひなこ」の成長はまだまだ途上ではあるし、課題や問題は日々新しく上書きされていくに違いない。一方で「図書館」とそこにある「地域」の共生は今に始まったことではないし、終わったわけでもないのだ。長く続くある瞬間の一コマをただ切り取っただけに過ぎず、つまりは清々しいほどにサラリとした終幕こそ正解と思い込むことにした次第だ。

漫画 25

綿谷さんの友だち

大島千春

高校3年生に進級しクラス替えとなった当日、「山岸」さんは教室の片隅で読書をしている見知らぬ同級生に気付く。「はじめまして」の挨拶は滞りなく出来ただろうか。冗談も洒落も通じないちょっと変わった感じの彼女は「綿谷」さんと言った。この物語はそんな女子高生「綿谷」さんを中心に「友だち」の作り方やあり方という、ともすれば深みにハマってしまいそうなアレコレを登場人物それぞれの個性にしっかりと焦点を当てて描いたコンセプトアルバム的青春譚だ。全3巻。

この物語の一番の魅力は、何と言っても初対面で同級生に「変わった娘・・・」と評されたその綿谷さんにあると言っていい。冗談や洒落のつもりで投げ掛けられた言葉を額面通りに受け取ってしまう融通の効かない真面目な娘、「友だちとは一体何だろうか」という極めて曖昧かつ微妙な問題について、もちろん「友だち」という喧々囂々の線引きをそのままドラマ化することは、青春モノとしてはかなり陳腐な展開と言えるだろう。だが曖昧だとか有耶無耶だとか、そんな甘酸っぱい平行線を「変わった娘」の綿谷さんは許さないのだ。空気を読まなければ成立しない感性や関係に一石を投じる綿谷さん。ただただ詰問するようであればナーバスな展開になってしまうだろうが、最初にきちんと説明することでその後の関係性を曖昧にさせないという意思表示になり、これまで「空気」という絆の中で生きてきたクラスメイトたちに(あるいは読者自身に)何か新しい関係性が生まれるのではという期待感を抱かせるのだ。この細かい「批評」と「変革」の積み重ねが物語を進める推進力の一つとなっている。

「友だち」という言葉の曖昧さが一方で青春時代の美的感覚だったあの頃。定義することの難しさ恐ろしさがあったのは多分今も昔も変わらないだろう。最近になって「多様性」という言葉が再発見されたが、ウワベの繋がりではなく、きちんと個性同士のぶつかり合いを描いた作品はそれほど多くないと思う。最初から計画された全3巻だったのか、事情はどうあれもうちょっと楽しみたかったなという思いとこの話数で良かったのだという感覚で読後は結構複雑な心境です。

著者
出版社
小説 28

明日の僕に風が吹く

乾ルカ

医者の家系に生まれついた「有人」は、幼い時に見た機内での叔父の姿に憧れてやはり医学の道を志す。しかし思い描いた医者への道は中学二年の晩夏に起こったクラスメイトの「道下」さんに纏わる事件によって自ら閉ざしてしまうのだった。そうして長い期間引きこもりとなった有人に優しく問い掛ける憧れの叔父。いつしかその叔父の手によって北海道の離島まで連れ出されることになる。これは取り返しのつかない失敗に苛まれた主人公の未来を取り戻す長い長い再生の物語だ。

この前に読了した同作家の「夏光る」は一言で言ってしまえば怪異譚ではあったが、その創造性あるいは空想的な広がりにおいて独特な味わいがあったように思う。実に美しい作品だった。翻って本作は極めてスタンダードでまたオーソドックスな作品だと思う。挫折からの再生という「青春もの」の王道を貫いているし、何より「ここではない何処か」への道筋を東京から北海道の、それも離島という格別な場所に導いていくことからも、作家本人が仕掛けたこのジャンルへの真っ向勝負ではと勘繰ってしまうほどだ。ここで語られている幾つかの伏線もまた結局は本筋を奮い立たせるためのスパイスに終始する。これをどう感じるかは読者次第だと思うが「夏光る」とは明らかに異なる文章・文体に戸惑う方もいるだろう。

いわゆるアナフィラキシー(アレルギー)の命に関わるような症状やその状態、あるいは物語の大勢を占める「離島医療」の問題、距離感はあっても誰かの日常には違いのない事象について、突きつけるような使命感めいたものをヒシヒシと感じてしまう。そうした雑味のないストレートなひたむきさを味わうには本作は打って付けではないだろうか。僕らの日常はそんなふうに切り取られていくものだときっと感じ入るに違いないし、そういう純粋さもまた物語の魅力なのだと再確認出来ると思う。

小説 27

高架線

滝口悠生

池袋に程近い西武線東長崎駅から徒歩5分、線路側、踏切間近に建つ古アパート「かたばみ荘」を舞台にその住人たちの一時の人生模様を描いた物語。出ていく住人が次の住人を探してくるという奇妙な条件、アパートに不具合が出ても大家がほとんどDIYのノリでカタをつけるためメンテナンスはないに等しい、で家賃は格安の3万円。アパートに伝う電車の通過、踏切の音、そんなボロボロのアパートに住まう人間たちとその周辺のややネジの緩んだ生活の有り様を日記のような気軽さで飄々と語っていく。

「○○です。」という自己紹介から始まる不思議な構造、内外入り乱れる文体に唐突に区切る文句、誰に向けられているのか曖昧な表現、このモヤっとした言葉の使い方はリアルな「日常」の中の出来事を語るに相応しい。一方で彼ら彼女らは決して奇特な部類の人間ではなく、平凡でありきたりな都会の個性であり、決して特異なサンプルではない。物語の終盤に向かって怒涛のように明かされる事実も単なる稀有な出来事だと片付けるには野暮というものだ。そうした奇妙さやおかしさ、言い換えればある種の「都合の良さ」こそ本質を覆い隠すための装いであって、本質から遠ざけようとする仕掛けに過ぎない。外側の「遊び」の部分と内側に込められた「思い」を味わう、これこそ本作の肝ではないだろうか。

家のひとつひとつ、部屋のひとつひとつに住人がいて、それぞれの生活や生き様があるという当たり前の事象に改めて気付かされる。「他人が(それも無数に)個として生活している」ことの重大さはマクロな視点で考えざるを得ない現代社会の、それも都会という場所の問題を詳らかにするのと同時に、その膨大な「個」の情報量にある種の神々しさや美しささえ感じてしまうのは、それが人生を抱える紛れもない「命」だからではないか。この感覚を物語の最後に高架を行く車窓から登場人物たちが受け取るのは印象的であるし、何よりその腹の中に新しい「命」が宿っていることも見逃せない。連環というと月並みなテーマに陥りそうではあるが、取っ掛かりを奇妙なアパートの生活から初めてこの終幕に落とし込む作家の仕掛けに、やはり神懸かり的な美しさを感じてしまったのだ。

小説 26

みかづき

森絵都

実家の問屋業が失敗し、若くして働くことになった「大島吾郎」は小学校の用務員職に就く。しばらくして勉強の出来ない子供たちの面倒を見るようになると、信念のような独自の考え方で子供たちを導き、いつしかそれは「大島教室」と呼ばれるほどの評判となった。この物語はその吾郎と彼に私塾運営を託した後の妻「千明」、連れ子を含む3人の娘たちに彼女らの孫の3世代にわたって学校と塾の官民含めた日本の戦後教育を紐解く壮大な大河ドラマに仕上がっている。

3代続く大島家は、それぞれの時代性、時代の風潮をその個性にしっかり反映させている。戦前に教育を受けた人間の教育に対する疑念あるいは理想に始まり、詰め込み教育と揶揄された世代、受験戦争、そしてゆとり世代と明治から続く教育の諸問題は昭和平成に至ってもなお、結局は時の潮流と切り離すことは出来ない。政治や経済に振り回されながら教育とはどうあるべきか、答えることが難しい数々の問いに大島家の面々は立ち向かっていく。

一方で主人公と呼べる存在は作中には表立って描かれない子供たち自身とも言える。そういう意味で言えば千葉県八千代台という新興住宅地を舞台にした点も同様に作中で描かれる世代交代は非常に興味深く読めた。単に「子供が大人になる」だけではなく「子が親になる」ことの意味も含めて、本作は共通する「教育の何たるか」を考える良いきっかけになるだろうと思う。

僕ら団塊ジュニア世代にとって学問とはライバルを蹴落とすための「手段」であったという感覚を否定することが出来ない。学力とは知識とは等と論じる前にその結果が試験の点数に結びついていることを嫌が応にも叩き込まれた口だ。受験戦争とはよく言ったもので、今この年になっても「教育」という言葉にあまり良い思い出がないのも事実であるし、何よりその結果の就職氷河期なのだから多感な十代の頃を無駄にしてしまったのではないかという無念ささえ拭えないでいる。そういう観点からでも本書の描く世界というのは実に興味深く、また実態の伴った生々しい感触を得られる貴重な資料だと言える。そしてその世代にある個人としてもこの物語が深く心に残ったことを付しておきたい。

漫画 24

水は海に向かって流れる

田島列島

高校生になった「熊沢直達(くまざわなおたつ)」くんは、漫画家になっていた叔父の元に居候することとなる。アパートというよりシェアハウスのようなその家には風変わりでクセの強い面々が揃っていたが、一見して一番まともに見えた10歳年上のOL「榊」さんは、実は直達くんと浅からぬ因縁で結ばれていた。この物語は過去から現在そして未来へと繋がる様々な絆をテーマにした「家族」譚だ。全3巻。

過去の不義から繋がる因縁。やろうと思えば何処までも重厚なシリアスものにできたはずだ。ところがこの物語はそんな重そうな展開に陥る一歩手前で、トボけたコマを大胆に差し込み、筋書きの力加減をマイルドに調節してくるのだ。この「極限」に振り切らない幕切れは簡単に言ってしまえば「なんちゃって」で方を付けるあの感覚で説明がつくのかもしれない。だが波風が立ちそうで立たない揺らぎの部分を筋書きではなくシリアスとユーモラスの振幅で語るこの構造に、家族や家族めいたものの理想の絆として投影したかったのではないか。かつてあった「崩し」の時代性を基にした配慮ではなく、最終巻巻末の後書きから察するにおそらく作家自身の資質が色濃く反映された故の構造なのだと思う。

世の奥様方に向けられた午後のテレビドラマにはないそんな振幅を、読み手はどう感じるか、結果としてひとつの答えに行き着かないだろうという曖昧さに結実する。また年少の「直達」くんとその同級生が気を使い「配慮」する側であり、反対に年長の「教授」や「親」たちが自由自在であること、その中間にある「榊」さんが繋ぎ(あるいはワイルドカード的な)であるという図式がその構造に拍車を掛けている。

緊張のキワで逆に舵を取る、世代の役割を逆転させる等、この「逆を衝く」という感覚こそ本作の魅力とも言えるだろう。多様性という言葉で片付けるのではなく、作家の思う筋書きにまんまと乗せられ、振り切らない揺らぎの中でシリアスを堪能できる稀有な作品なのだ。

著者
出版社
漫画 23

あさひなぐ

こざき亜衣

スポーツに縁のなかったメガネの主人公「東島旭(とうじまあさひ)」は二ツ坂高校に入学すると、耳障りの良い謳い文句とキレのある先輩に惹かれて「薙刀部」に入部する。決してメジャーな競技とは言い難い「薙刀」にかける女子高校生たちの青春模様を描いたスポ根系群像劇。全34巻。

凡人が天才になる様を描いたわけでもなく、背負った業から逃れる悲哀を切り取ったわけでもない、ただ純粋に「何も持っていない」主人公のこの成長譚は、他のスポーツ系漫画とは明らかに趣が違う。何もないことが逆に良かった、というわけでもなく、群れに埋もれてしまった一人の少女にスポットを当てて、彼女と彼女を取り巻く個性のせめぎ合いを描きながら、その中で得た思いや気付きを紡いでいく様に重点が置かれている。端的に言ってしまえば、試合の勝ち負けよりも彼女や彼女たちの生き様、もしくは思想(生き方・自分とは何かといった類の)の変遷を楽しむ物語、なのだと思う。

いあゆるバトル系の漫画にありがちな「強者のインフレ」に陥らず、数多い登場人物のそれぞれにも目を配り、一方で「なぜ戦うのか」という主題から目を逸らさず根源的な人と人とのやりとりで気付かされる自分という存在。最終巻の作者後書きで述べられている通り、作家本人の当時の環境や思いがあったにせよ、ある種の「悟り」のようなフッと肩の力が抜ける瞬間をこうもナチュラルに筋立てるにはかなりの試行錯誤があったに違いない。

足掛け約10年、じっくりと醸成されていった物語の終幕は厳かで実に美しい。この先の「未来」でも彼女たちはきっとやり抜いてくれるはずだという確信、読者やもしかしたら作家の手から彼女たちが離れた瞬間を目撃してしまった寂しさ・頼もしさ、そんな生々しい感傷に浸って長く心に残る傑作だと断じたい。

その他 5

鶴見俊輔全漫画論・一

鶴見俊輔

日本の哲学・思想史を語る上で決して外すことの出来ない哲学者・評論家の鶴見俊輔(1922-2015)による漫画評論集。全2巻ではあるが内容が極めて濃いので一巻ごとに投稿する(僕は読破に2ヶ月を要した)。鶴見俊輔と言えば、哲学者にしては破天荒な遍歴を持つ方なのだが、特に大衆文化としての「漫画」表現に並々ならぬ関心を持ち、面白い評論を数多く残していることでも知られている。戦前に連載漫画というスタイルをとった国内初めての作品「正チャンの冒険」から、戦後昭和初期中期頃の長谷川町子、手塚治虫、水木しげる、白土三平、つげ義春など主に大衆文化によって育まれ、社会と密接に関わりのあった作家・作品を評論の題材としている。もともとは幾つかの誌面で掲載された評論をまとめたもの、と言えば本作の仕組みが分かりやすい。内容が重複する箇所もそれ故である。

日本漫画史における(特に安保闘争の起こった)60年代辺りの「知」としての漫画のあり方については正直なところ僕の感覚ではよく分からない。現代の漫画のような「商品」でなかった時代の今となっては違う意味での多様性に歴史的、社会的、あるいは作家の生い立ちや感性などを踏まえて哲学者として切れ味鋭く、しかし視線はあくまで大衆の側として実に大らかにアクティブに論じている。鶴見俊輔の言う「どんなに偉い学者でも主婦の持つ思想には敵わない」というスタンスが漫画評論のスタイルとして生きている。

本作は漫画の評論集でもあり貴重な漫画史を記した歴史書でもある。19世紀にアメリカで興った漫画文化から「正チャンの冒険」に受け継がれて最早100年以上、漫画の意味も意義も目紛しく変化してきたがその端緒を知る上でも本作は最良の一冊と言える。