皐月文庫

とあるデザイナーが読了した本の記録と感想。小説、漫画、その他書籍全般、ジャンルを問わず、タイトルや装丁デザインにピンときた本を手当たり次第に読んでいます。皐月文庫についてお問い合わせ 分類 小説漫画その他 属性一覧 著者出版社タグ 但しビジネス書やいわゆる自己啓発本の類いには興味がありません。人間らしい生活感の溢れた物語作品が好きです。

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最終更新日2022年6月11日
小説 31

ワーカーズ・ダイジェスト

津村記久子

舞台は大阪、デザイン事務所に勤めるデザイナーの「奈加子」は副業でライターの仕事もこなす32歳。一方ナカセガワ工務店に勤める同じ32歳の「重信」は東京から故郷の大阪に転勤となり実家に戻ってきた。何の接点もない二人がお互いに打ち合わせの代理という立場で初めて顔を合わしたのは大阪駅にあるホテルのロビーだった。表題の「ワーカーズ・ダイジェスト」に短編「オノウエさんの不在」も含めて会社員の薄い悲哀を綴ったまさにダイジェストな日常譚。

この作家の人物描写には本当にいつも驚かされる。絶妙な距離感があって、例えばそれぞれのキャラクターにぐっと寄って深層を抉り出そうとするわけでもなく、読み手がある意味神様のような視点に立ってただただ箱庭を眺めていくわけでもない、まさに彼ら彼女らの頭の上にいるような、そう今風に言えばGoPro映像のような感覚、本作においてもその感覚はもちろん健在で、なおかつサラリーマンたちの頭上数センチに立って垣間見るわけだから、何だか無性に叫びたくなるような生々しさにグッとくる。ところが不思議なことに感情移入云々というような物語で有りがちな楽しみ方がここではし辛い。登場人物たちの生音が聞こえてくるような場所にいるのに、どういうわけかフッと二三歩引いて読んでいる自分に気付く、これが驚きの理由になっている。

よくよく読んでみればそれぞれのキャラクターはかなり特異な方だ。何かにコダワリがあり、悩みもあり、ちょっとづつ失敗もする、好きも嫌いもやたらに溢れていて妙に鼻を突く人間臭さがある。ところがそんな人物があっても日常のアレコレが覆るような大きな事件が起きるわけでもないので、おそらくこの辺のバランス感覚、人物と背景のマッチ具合が多分キモなんじゃないかなと読後に思ったのだけれども、果たしてどうだろうか。

とにかく何度も言うようにこの作家は観察の人だと思う。それは本当にどの作品を読んでも強く感じる。あるいは「観測」の作家であって、作家である彼女が見たものが「事実」として小説になるような、そういう自然な創作の流れを体験出来ると思う。

小説 30

離陸

絲山秋子

国交省からとあるダム現場に出向した「佐藤」は、ある夜外国人(屈強な黒人)の突然の訪問を受ける。佐藤の元恋人「乃緒(のお)」は奇妙な名前の息子をフランスに残して失踪しており、一緒に探し出してほしいと言う。なぜフランスなのか、その子の父親は誰なのか、そして彼女は今何処で何をしているのか。その瞬間から日本やフランスなどいくつかの国を跨いだ壮大でミステリアスな物語が幕を開けるのだった。

主人公である佐藤を軸としながら、彼自身と彼にまつわる「人生」にスポットライトを当てて、肝心なところはぼかしつつもその実痒いところに手が届くような繊細さで描写がなされている。例えば冒頭に描かれる山奥のダムに風景や飛び先でもあるフランスの街とその路地裏の描写など、必要最小限度の文体で「そこにいる感」を軽々と演出しているふうに思う。このある種の軽妙さは、主人公「佐藤」の性格あるいは心理状態と常にリンクしていて、まるで狂いのないメトロノームのように、スラスラと先んじてしまう心地よさがある。それはまさしくこの作家のセンスだと言えるのだが、そういう言葉では何とも説明のし難いセンス(敢えて魅力と言う)として、この作家ほど分かりやすい方はいないんじゃなかろうかとも感じるのだ。

失踪した女優「乃緒」を求めていく過程で不意に提示されるミステリアスな展開、SFかファンタジーか「これはそういう類のお話でしたっけ?」と読み手の中に現れる疑念。この仕掛けが実に面白い。この疑わしさの中、本質は決してブレずにただただ真っ直ぐ進んでいく。つまり表題の「離陸」の通り、この物語はその終盤まで長い長い滑走路を直進しているに過ぎないのだ。だからこそその答えに迷いがない。間違いがないとも言えるのだろうが、このあたりはボク自身ももっともっと読み込まないと確信には届かないだろうなと。そういう点でも読み応えのある作品だと思う次第だ。

小説 29

ジャージの二人

長嶋有

二度の離婚をして更に三度めの結婚もうまくいっていないカメラマンの「父親」と妻に不倫をされてもなおウジウジと決めかねている「息子」が祖母の残した軽井沢の別荘で過ごす避暑のための数週間。大量に残された学生用ジャージに着替えて、何をするわけでもなく、親子揃ってダラダラと夏を越していく。まるで映画のワンシーンワンカットのような切れ目のない文章、何処か地に足の着いていないフワフワとした登場人物たち。ストーリーとテンポが噛み合わない不思議な非日常系日常譚。なお文庫版には表題の「ジャージの二人」に後日譚としての続編「ジャージの三人」も収録されている。

久々に小説を読んでいて「ウッ」となった。面白い、何も起こらないのに面白い。で、面白いんだけど、その実ものすごく読み難い。このセリフは一体誰の言葉なんだとか、そういうふうに視点視座が当然のように「わかっていますよね」と勢いで紡がれていく。読むためにはまず作者の頭の中に入り込んで情景を共有し、次いで登場人物たちに入り込んでその空間が一体何なのか把握する必要がある。しかしこの作業が無意識にできるようになると、急に視界が彼らのものにジャックされて妙に生々しい物語となる。これがこの作品の最大の魅力のひとつだと思う。

勿論こんな仕掛け(あるいは作風めいた)というのは別段新しいものではないだろうし、珍しいものでもないんだろうけど、どうにも他に説明のしようがないのだ。先ほど言った映画のワンシーンワンカットというのは若干強引な例えではあるのだけど、個人的には正しいと感じているのでよく言われる「臨場感」とは別に敢えてもう一度言及してみる。つまりこうだ、書かねばならない情報は連続している、それは原因と結果の反復であり、それこそ時間を軸にしたリアルさである、都度あらわれる様々な事象や思考の変遷を脚色なく鎖のように繋いでいくことで物語に嘘臭さがなくなり、その結果作品世界と読み手の間の距離感が限りなくゼロに近付いていく、とこんな具合だ。

「父子から魔女じゃないかと疑われている友人」「携帯電話のアンテナが3本立つ場所」「ほとんど気を使わない犬臭い犬」というような気になる仕掛けがありつつも、表題の通り蓋を開けてみれば結局は「ジャージの二人」ではあるのだが、この一筋縄ではいかない(あるいはいかないように装っている)この究極の距離感こそ、味わってほしい本作最大の魅力と言える。そして図らずも一気に全部読んでしまう、そういう類の小説なのだ。

漫画 30

スインギンドラゴンタイガーブギ

灰田高鴻

福井の田舎から東京にやってきた天真爛漫な「於菟(おと)ちゃん」は、川で溺れて魂を無くしてしまった姉の思い人「コントラバスを演奏する男」を探しに東京へとやってきた。世はまさに戦争直後のカオスな時代。ひょんなことから進駐軍相手にジャズを演奏するバンドと出会った「おとちゃん」は、偶然にもそのメンバーの中に思い人「オダジマタツジ」を見付けるのだった。戦後間もない混乱期の中、音楽という「希望」に翻弄される人間たちのドラマを疾走感たっぷりに描いた傑作。全6巻。なお本作は第24回メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞している。

特にこの敗戦直後の風俗を描いた物語などは、どういうわけかその熱量で他の歴史ものの追随を許さないと個人的には思っている。それは例えば幕末志士の奮闘だろうと安保闘争の激烈な総括であったとしても敵わないだろうなというくらいの熱さ。本作は特にそういう他の歴史風俗ものとは一線を画す形で迸る熱量を描ききっていると感じる。とにかく熱い作品なのだ。

物語の主人公はタイトル通りにタイガーの「おとちゃん」とドラゴンの「小田島龍治」なのだが一癖も二癖もある名脇役たちが二人を脅かすくらいにクローズアップされ物語の推進力となっていく。群像劇ではないがキャラクターを唯一無二の個性として丁寧に描いているという感触。時代性を考えた上でリアリズムを追求するのであれば、群像劇のような扱いは当然のようにも思えるが、本作が傑作足りうるのはそこに無駄が一切ないことだと思う。シリアスとギャグを行き来するドライブ感も実のところ、そうした個性の「無駄のなさ」こそなんだと思えば、その正体が見えてくるのかもしれないのだ。

幕間に描かれる小話を読むと、不意にこの作者のストーリーテリングには二重の仕掛けがあるように思えてくる。もしかしたら劇中劇のように個性を別の個性で包み込み、どこかで読者を煙に巻こうとしているのではないか、やりきるという作者の「気恥ずかしさ」を潰すためにそうした漫画的テクニックで強引に物語に仕立て上げているのではないか、そんな感覚だ。

いずれにしても、この作品の面白さはぶつかり合って生まれる疾走感、ドライブ感にある。あっという間に読めてしまう全6巻。絶妙な巻数であるし、幕の引き方もこれ以上ないほどに清々しい。良質のマンガ物語を読みたいのであれば、本書は間違いなくオススメしたいと胸を張って言える。

漫画 29

バクちゃん

増村十七

遠いバクの星から東京メトロ(!?)で地球の日本にやってきた獏の「バクちゃん」の夢追い冒険物語。全2巻。よくデザインされた絵本のようなタッチ、ヒネリの加わった言葉遊びやパロディなど、独特なセンスを含めてあらゆるコマから作者の絵に対する拘りが見付けられるような熱く美しい物語に仕上がっている。そう、ここ最近読んだ物語の中でも熱量の高い作品のひとつだと思う。それは単にコマのひとつひとつに拘りを持って描いているだけではなく、このタッチにあってもなお現実の社会問題に真っ向から切り込んでいるからだ。

もはや草木すら夢を見ない貧困のバク星からやってきた「バクちゃん」は、電車内で溺れかけているところを名古屋からやってきた人間の「ハナちゃん」に助けられて、そのまま同じアパートに下宿することとなった。様々な宇宙人たちが溢れる社会でそれぞれがそれぞれの悩みを抱えて生きている中、永住権を手に入れるため奮闘する「バクちゃん」。うーん、こうして冒頭の圧倒的な自由さを文章に置き換えてしまうと途端に「なるほど、そういう話か」となってしまうこの残念さはなんだろう。このワクワク感が急に色褪せてしまって口惜しさすら感じてしまう。

ここで語られるテーマ、例えば「移民」の問題などはむしろ導入でしかなく、もっと根源的な「社会」や「人間」そのものに向けられており、「バクちゃん」が「夢」を食む獏であることの意味や意義とひとつに考えなくてはならない。「夢」はボクらの原動力になっているのだろうか、あの人はどうだろうか、この人はどんな「夢」を持っているのだろう、もしかしたら他人の「夢」に気付いていないだけで、この社会は「夢」で溢れているのではないか。外から見きれない人間にとって、読後のこの優しい気付きにこそ大きな意味があるような気がしてならないのだ。

寓話だね、イソップかもと片付けてしまうと何だかやるせない感覚はあるのだが、微妙に外れたコメディ感が何とはない嘘臭さを醸し出していて、重いなという印象はまったくない。これは読み手としては結構重要であり、表現の場として漫画を選んだのは成功していると思う(漫画があって内容があったのだと思うが)。ただ如何せん物語で語りたい多様な「夢」と同様、いろんな人に読んでもらわないとどうにもならない歯痒さがあるので「もうとにかく読んでほしい」とその一言に尽きる。

漫画 28

空電の姫君

冬目景

かつて一世を風靡した伝説のロックバンドのギタリストを父に持つ女子高生「保坂磨音(まお)」と周囲の目を引かずにはいれない美人の同級生「支倉夜祈子(よきこ)」を軸に繰り広げられるバンド譚。ボーカルを事故で失ったバンド「アルタゴ」の面々や過去の面影をまったく感じさせない冴えない父とその周囲など、キャラクターの隅々まで冬目節が唸る生粋の青春モノだ。とはいえ本作を語る上での最も重要なポイントと言えば、その冬目節によって描かれる「ギターを掻き鳴らす女子高生(磨音)の図」、これに尽きる。なお本作は全6巻ではあるが最初の3巻は「空電ノイズの姫君」として幻冬舎より出版、その後講談社に移籍して続刊された。

冬目景の描く世界にはどういうわけか独特のリズム感があって、この感覚を言葉にするのは非常に難しいのだが、本作の題材にもなっているロック(多分グランジ・オルタナ系)ではなく、ジャズとかプログレといったようなその場の空気感を基調とするような雰囲気、すべてのキャラクターに波長のようなものが揺らめいていて、個としての側面をチラつかせながら、それぞれが交差する時に驚くほどミックスされたひとつの音になるような、そういう不思議な感覚がある。村上春樹的なニュアンスというか・・・、うん、ちょっとうまく言えないのだけど、ある種突き放したような視線を読者は持ち合わせつつ、何故かキュンとしてしまうシンクロ感を交互に味わえる不思議な作風、というような、まあ簡単に言ってしまえば他ではまあ味わえない「独特」な漫画なのだ。

だからこそ冬目景の描く世界と「音楽」はベストマッチだと言わざるを得ない。

本作はもともと短編として企画されたようで、意図せず長編になったと最終巻で作者が書き記しているが、まったく逆に「イエスタデイをうたって」のような大長編であったならば、最終巻の強引さには気付かなかったかもしれない。しかしながら前述の通り冬目景が描く「ギターを持った女の子の図」で多分この物語の魅力はほぼ完遂していると言っても過言ではないので、個人的には良作のひとつに加えたいところ。

漫画 27

廃墟のメシ

ムジハ

無数の巨大な廃墟に覆われた世界で、遺物を求めて探索する「探索師」の少女「ハルカ」と喋る箱「ソル」の冒険を綴ったいわゆる「終末もの」に類する物語。ただし彼女たちが求める遺物とは料理という概念がなくなったその世界にあって数千年前に滅んだはずの「カレー」であり、枠に嵌めたような悲壮感や絶望感は皆無。どちらかというと「お笑い」的要素に溢れた健全で健康的なユルいSF作品、と言っていいと思う。全4巻。

もちろん巨大な構造物とそこに蠢く虫のようなロボットたち、ポストアポカリプス系ではありがちなヒャッハーな戦闘狂など、異様な舞台設定や派手な戦闘シーンも用意されている。しかしあくまで「カレー」のための物語であり、更に言えばラーメンやハンバーガーでもない「カレー」であるというところが極めて重要な示唆になっているのだと思う。カレー粉にそんな効能があったのかというツッコミはさておき、そうした細かい設定も含めて裏に驚愕の真実があることを詳らかにしていくのだが、その行く末に「カレー」が何故テーマとしてなり得たのかはかなりの確信を持って納得できるはずだ。

人間の三大欲求や衣食住に関する諸事情をテーマにした作品というのは、普遍的な題材だけに取り扱いが非常に難しいのではないかと感じている。結局のところ「どう満たすか(あるいはどう満たさないか)」であって筋書きとしては一辺倒になり易く、またそれ以上にもし難い大人の事情(例えば社会通年や倫理観を持ち出してしまう場合など)があり極論を描くには相当な覚悟が必要だろう。何かに触れない範囲でオリジナリティを追求するにはやはりアイデアで抗するしかないのだが、SFではわりと疎かになりがちな「食」がテーマである点、その世界の日常にきちんとアプローチしようという姿勢、こうしたある種の真面目さこそ本作のユニークなストーリーに一役買っているように見える。

もちろんそこまで仰々しい話ではないのだけど、もしかしたら現代社会の各方面に一石を投じているかもしれないという点でもなかなか侮れない楽しい作品だと思います。

漫画 26

夜明けの図書館

埜納タオ

新人司書として暁月(あかつき)市立図書館に勤務することとなった「葵ひなこ(25歳)」のレファレンスサービスにおける奮闘ぶりを描いたいわゆるお仕事もの。一人の司書を通じて語られる図書館の様々な事情、「公共の書架」に馴染みのない方々には驚くような実態を垣間見られる稀有な物語と言ってよいと思う。連載期間約10年の歳月を掛けてこの度めでたく完結した、全7巻。

本好きにとって図書館は書店と並ぶ聖地のひとつではある。一方そこまでの本好きではなかったとしても図書館に対する感覚というのはおそらく共通してもっとも気軽に赴ける「公共施設」と言っていいだろう(実を言うとそうした各図書館ごとに蔵書のジャンルなどで特徴があることを知る人は多くはないかもしれない)。とにかく各都市・各地域には必ずあるこの図書館という存在とそこで働く司書、そして利用する側の様々な人間模様と照らし合わせて物語の核を成しているのが本書の特徴だ。司書が単なる「図書館の受付の人」ではなく、レファレンスというサービスを通じて「人」や「地域」とどう関わっていくのか、そうした「コミュニケーション」を「発見(もしくは再発見)」というゴールに向かって醸成されていく様を存分に楽しめる。

「図書の守り人」とはよく言ったものだがそれだけではないある種の謎解き要素「探偵もの」のような、事実や真実をひとつひとつ丁寧に紐解いていく過程は非常に興味深い。「答え」として何が適切なのか、過去の事情を照らし合わせたり、将来への事情を汲み取ったり、極めてドラマチックな言い換えれば人間味の溢れるストーリーを堪能出来ると思う。

地味に次巻を楽しみにしていた作品なので完結は少々寂しい気もする。主人公「ひなこ」の成長はまだまだ途上ではあるし、課題や問題は日々新しく上書きされていくに違いない。一方で「図書館」とそこにある「地域」の共生は今に始まったことではないし、終わったわけでもないのだ。長く続くある瞬間の一コマをただ切り取っただけに過ぎず、つまりは清々しいほどにサラリとした終幕こそ正解と思い込むことにした次第だ。

漫画 25

綿谷さんの友だち

大島千春

高校3年生に進級しクラス替えとなった当日、「山岸」さんは教室の片隅で読書をしている見知らぬ同級生に気付く。「はじめまして」の挨拶は滞りなく出来ただろうか。冗談も洒落も通じないちょっと変わった感じの彼女は「綿谷」さんと言った。この物語はそんな女子高生「綿谷」さんを中心に「友だち」の作り方やあり方という、ともすれば深みにハマってしまいそうなアレコレを登場人物それぞれの個性にしっかりと焦点を当てて描いたコンセプトアルバム的青春譚だ。全3巻。

この物語の一番の魅力は、何と言っても初対面で同級生に「変わった娘・・・」と評されたその綿谷さんにあると言っていい。冗談や洒落のつもりで投げ掛けられた言葉を額面通りに受け取ってしまう融通の効かない真面目な娘、「友だちとは一体何だろうか」という極めて曖昧かつ微妙な問題について、もちろん「友だち」という喧々囂々の線引きをそのままドラマ化することは、青春モノとしてはかなり陳腐な展開と言えるだろう。だが曖昧だとか有耶無耶だとか、そんな甘酸っぱい平行線を「変わった娘」の綿谷さんは許さないのだ。空気を読まなければ成立しない感性や関係に一石を投じる綿谷さん。ただただ詰問するようであればナーバスな展開になってしまうだろうが、最初にきちんと説明することでその後の関係性を曖昧にさせないという意思表示になり、これまで「空気」という絆の中で生きてきたクラスメイトたちに(あるいは読者自身に)何か新しい関係性が生まれるのではという期待感を抱かせるのだ。この細かい「批評」と「変革」の積み重ねが物語を進める推進力の一つとなっている。

「友だち」という言葉の曖昧さが一方で青春時代の美的感覚だったあの頃。定義することの難しさ恐ろしさがあったのは多分今も昔も変わらないだろう。最近になって「多様性」という言葉が再発見されたが、ウワベの繋がりではなく、きちんと個性同士のぶつかり合いを描いた作品はそれほど多くないと思う。最初から計画された全3巻だったのか、事情はどうあれもうちょっと楽しみたかったなという思いとこの話数で良かったのだという感覚で読後は結構複雑な心境です。

著者
出版社
小説 28

明日の僕に風が吹く

乾ルカ

医者の家系に生まれついた「有人」は、幼い時に見た機内での叔父の姿に憧れてやはり医学の道を志す。しかし思い描いた医者への道は中学二年の晩夏に起こったクラスメイトの「道下」さんに纏わる事件によって自ら閉ざしてしまうのだった。そうして長い期間引きこもりとなった有人に優しく問い掛ける憧れの叔父。いつしかその叔父の手によって北海道の離島まで連れ出されることになる。これは取り返しのつかない失敗に苛まれた主人公の未来を取り戻す長い長い再生の物語だ。

この前に読了した同作家の「夏光る」は一言で言ってしまえば怪異譚ではあったが、その創造性あるいは空想的な広がりにおいて独特な味わいがあったように思う。実に美しい作品だった。翻って本作は極めてスタンダードでまたオーソドックスな作品だと思う。挫折からの再生という「青春もの」の王道を貫いているし、何より「ここではない何処か」への道筋を東京から北海道の、それも離島という格別な場所に導いていくことからも、作家本人が仕掛けたこのジャンルへの真っ向勝負ではと勘繰ってしまうほどだ。ここで語られている幾つかの伏線もまた結局は本筋を奮い立たせるためのスパイスに終始する。これをどう感じるかは読者次第だと思うが「夏光る」とは明らかに異なる文章・文体に戸惑う方もいるだろう。

いわゆるアナフィラキシー(アレルギー)の命に関わるような症状やその状態、あるいは物語の大勢を占める「離島医療」の問題、距離感はあっても誰かの日常には違いのない事象について、突きつけるような使命感めいたものをヒシヒシと感じてしまう。そうした雑味のないストレートなひたむきさを味わうには本作は打って付けではないだろうか。僕らの日常はそんなふうに切り取られていくものだときっと感じ入るに違いないし、そういう純粋さもまた物語の魅力なのだと再確認出来ると思う。

小説 27

高架線

滝口悠生

池袋に程近い西武線東長崎駅から徒歩5分、線路側、踏切間近に建つ古アパート「かたばみ荘」を舞台にその住人たちの一時の人生模様を描いた物語。出ていく住人が次の住人を探してくるという奇妙な条件、アパートに不具合が出ても大家がほとんどDIYのノリでカタをつけるためメンテナンスはないに等しい、で家賃は格安の3万円。アパートに伝う電車の通過、踏切の音、そんなボロボロのアパートに住まう人間たちとその周辺のややネジの緩んだ生活の有り様を日記のような気軽さで飄々と語っていく。

「○○です。」という自己紹介から始まる不思議な構造、内外入り乱れる文体に唐突に区切る文句、誰に向けられているのか曖昧な表現、このモヤっとした言葉の使い方はリアルな「日常」の中の出来事を語るに相応しい。一方で彼ら彼女らは決して奇特な部類の人間ではなく、平凡でありきたりな都会の個性であり、決して特異なサンプルではない。物語の終盤に向かって怒涛のように明かされる事実も単なる稀有な出来事だと片付けるには野暮というものだ。そうした奇妙さやおかしさ、言い換えればある種の「都合の良さ」こそ本質を覆い隠すための装いであって、本質から遠ざけようとする仕掛けに過ぎない。外側の「遊び」の部分と内側に込められた「思い」を味わう、これこそ本作の肝ではないだろうか。

家のひとつひとつ、部屋のひとつひとつに住人がいて、それぞれの生活や生き様があるという当たり前の事象に改めて気付かされる。「他人が(それも無数に)個として生活している」ことの重大さはマクロな視点で考えざるを得ない現代社会の、それも都会という場所の問題を詳らかにするのと同時に、その膨大な「個」の情報量にある種の神々しさや美しささえ感じてしまうのは、それが人生を抱える紛れもない「命」だからではないか。この感覚を物語の最後に高架を行く車窓から登場人物たちが受け取るのは印象的であるし、何よりその腹の中に新しい「命」が宿っていることも見逃せない。連環というと月並みなテーマに陥りそうではあるが、取っ掛かりを奇妙なアパートの生活から初めてこの終幕に落とし込む作家の仕掛けに、やはり神懸かり的な美しさを感じてしまったのだ。

小説 26

みかづき

森絵都

実家の問屋業が失敗し、若くして働くことになった「大島吾郎」は小学校の用務員職に就く。しばらくして勉強の出来ない子供たちの面倒を見るようになると、信念のような独自の考え方で子供たちを導き、いつしかそれは「大島教室」と呼ばれるほどの評判となった。この物語はその吾郎と彼に私塾運営を託した後の妻「千明」、連れ子を含む3人の娘たちに彼女らの孫の3世代にわたって学校と塾の官民含めた日本の戦後教育を紐解く壮大な大河ドラマに仕上がっている。

3代続く大島家は、それぞれの時代性、時代の風潮をその個性にしっかり反映させている。戦前に教育を受けた人間の教育に対する疑念あるいは理想に始まり、詰め込み教育と揶揄された世代、受験戦争、そしてゆとり世代と明治から続く教育の諸問題は昭和平成に至ってもなお、結局は時の潮流と切り離すことは出来ない。政治や経済に振り回されながら教育とはどうあるべきか、答えることが難しい数々の問いに大島家の面々は立ち向かっていく。

一方で主人公と呼べる存在は作中には表立って描かれない子供たち自身とも言える。そういう意味で言えば千葉県八千代台という新興住宅地を舞台にした点も同様に作中で描かれる世代交代は非常に興味深く読めた。単に「子供が大人になる」だけではなく「子が親になる」ことの意味も含めて、本作は共通する「教育の何たるか」を考える良いきっかけになるだろうと思う。

僕ら団塊ジュニア世代にとって学問とはライバルを蹴落とすための「手段」であったという感覚を否定することが出来ない。学力とは知識とは等と論じる前にその結果が試験の点数に結びついていることを嫌が応にも叩き込まれた口だ。受験戦争とはよく言ったもので、今この年になっても「教育」という言葉にあまり良い思い出がないのも事実であるし、何よりその結果の就職氷河期なのだから多感な十代の頃を無駄にしてしまったのではないかという無念ささえ拭えないでいる。そういう観点からでも本書の描く世界というのは実に興味深く、また実態の伴った生々しい感触を得られる貴重な資料だと言える。そしてその世代にある個人としてもこの物語が深く心に残ったことを付しておきたい。